北海道の第二の都市、旭川市の郊外に「ウラヤマクラシテル」というギャラリーがあります。
ギャラリーに向かう途中の道は木々に囲まれた坂で、まさに「裏山」に向かう道。
その先に「暮らし」ているという、知る人ぞ知る陶芸作家さん工藤和彦さんのアトリエ併設のギャラリーへとお邪魔してきました。
陶芸に明るくない取材班は少しドキドキしながらの取材です。
というのも「白樺プロジェクト」という、白樺を北海道の資源として再評価し、森林と生活者を結び、産業として、文化として根付くことを目指すプロジェクトがあり(白樺プロジェクトの記事はコチラ)、そこで工藤さんのことを知り、是非会わせてください!とお願いしたのは10月の中旬。
北海道旭川市ではもうすぐ雪が降りだす時期。これからの寒さに備えて山も空気も人々もキュッと気持ちが引き締まる、そんな時節にお邪魔しました。
ギャラリーに到着すると入り口からフラリと出迎えてくださった工藤さん。
「職人さん」ということで堅くて恐い方だったらどうしよう...という取材陣の心配をよそに、柔和に暖かく迎えてくださったのでした。
その細身の体では全く想像がつきませんが、なんとこのギャラリーの建物は工藤さんが買取り、ほぼ全て自分でリノベーションしたのだとか!
では早速工藤さんが陶芸家としての道を歩まれた経緯、そして北海道の土地で活動を行うこと、白樺プロジェクトについてもお話しを聞いてみましょう。
焼物に魅せられた高校時代。ヒッチハイクで憧れの先生の元へ
工藤さんは神奈川県出身。16歳から陶芸を始めました。もともと美術が好きだったと高校時代を振り返ります。
陶芸を始めてからどんどんとその魅力に惹かれ、工業高校に進学していた工藤さんは、当時就職率300%といわれるバブルまっただ中で、一人だけ就職が決まっていなかったのだと笑います。
大学に進学して学びたいという気持ちもあったそうですが、好きな陶芸家の先生の下で勉強したい!という気持ちが強かった工藤さんは、押しかけ同然で何度も先生のもとに弟子入り志願に通ったのだとか。
工藤さんが惚れ込んだ先生は、信楽焼で活躍されていた神山清子(こうやまきよこ)先生。
朝の連続ドラマの主人公のモデルにもなった女性陶芸家の草分け的存在です。
「神山先生に弟子入りしたくて、夏休みや冬休みにヒッチハイクで滋賀県の信楽まで行ったりしていたんです。もちろん弟子入りなんて断られてね。でもヒッチハイクで行ってるから先生も泊まらせないわけにいかないじゃないですか。それで家にいれてもらって(笑)。先生が海外の個展などでいないときは先生のお母さんにもかなりお世話になりました」と工藤さんは当時を振り返ります。
弟子入りは断られ続けても、通い続けた工藤さん。
その熱が伝わったこともあり、また、先生のお母さんが「弟子にしてやって」と言い残して亡くなったこともあり、高校卒業後は内弟子にしてもらったのだと言います。
こうして神山先生の内弟子として3年間修行の日々。
先生の陶芸家としての姿勢はもちろん、ライフスタイル、展覧会のやり方などすぐ近くで学ぶ事ができたといいます。
「内弟子というのは一緒に生活するということですから、実際先生は大変だったと思いますよ。他人ですからね。でも、この昔ながらの内弟子スタイルだったからこそ陶芸家の1日の流れもわかったし、肌で感じることが出来ました。本当に勉強になりましたね」と当時を笑顔で振り返ります。
工藤さんはどうして色々な陶芸の産地がある中で信楽焼を選んだのでしょうか。
「『粘土を炎で(薪で)焼く』ことで焼きの面白さが出るのが、備前焼と信楽焼なんです。この二つのなかでも自分は信楽焼の方が感性が向いているなぁと思ったのが信楽焼を選んだきっかけです」
神山先生に師事する3年間で、多くのことを学びながら今も心に残っている事があると工藤さんは言います。
「それは『人のふんどしで相撲を取るな』ということです。作家としてはオリジナリティがとても大事です。人の真似や拝借した物で成功しても自分の力ではない。そしてその人を超えられずに苦しむことになる。18歳19歳の時分では意味はわからなかったが、今では本当に先生の言っていたことがよくわかります」
福祉施設での社会経験が北海道に来るきっかけに
神山先生の元で3年間の内弟子修行を経て、工藤さんは滋賀県立信楽学園という児童福祉施設に就職します。
福祉の先進県だった滋賀県では、「創作活動に茶々を入れずに見守れ」という先人達からの意識があったのだといいます。
知的障がいのある児童達のピュアなオリジナリティを大事にしている施設で、ちょうど焼き物の指導員を探していたのだそう。
「退職する職業指導員がいるので働かないかと声をかけられました。焼き物の指導をしながら福祉と関わるお仕事です。そこで2年間働きました。けどね、公務員の仕事が肌に合わずに、やらせてもらう仕事にも制限があって、すこしモヤモヤしていたんです」と当時を振り返ります。
そんな時、北海道剣淵町に、全室個室で成人の知的障がいのある方の福祉施設が出来ると聞いた工藤さんは、見学したい!ということで北海道へ来道しました。
そこで出会ったのが横井寿之(よこいとしゆき)さんでした。
(横井さんは現在当麻町で当麻かたるべの森という福祉施設の副理事長をやっていらっしゃいます。くらしごとの記事はコチラ↓
https://kurashigoto.hokkaido.jp/konomachi/20201001093000.php)
立ち上がったばかりの剣淵町の施設に未来を感じた工藤さん。
更にはなんと、この剣淵町の施設は陶芸で使える粘土の上に施設が建っていたのです。
そして「この土地の粘土を使って施設の授産製品を作れないか」「好きにやってイイよ」と横井さんからも口説かれたのだとか。
今まで自分が働いていた信楽学園への恩義を感じていた工藤さんは両施設の合間で揺れ動きます。
そんな話をすると横井さんが滋賀県まで来て、園長と話をし、工藤さんは剣淵町の福祉施設で働くことになったのです。
「横井さんが剣淵町にいなければ、僕は北海道には来ていなかったでしょうね」と工藤さんは微笑みます。
剣淵町の福祉施設では思い切ったことをやらせてもらったと工藤さんは振り返ります。
ですが働き初めてから3年が経った時、「もっと施設職員じゃできないような、フリーな関係で知的障害のある方と創作活動を取り組むようなことをやりたい」と退職を決意。
自分も陶芸家としての創作活動を行う一方で、剣淵町のなかにアトリエをつくり、福祉施設利用者の作品制作を支援し、それぞれの個展やグループ展を企画開催するなど、職員ではできなかったような方向からの活動をスタートさせました。これは今も工藤さんが続けているNPOの活動の基礎となっています。
その時も横井さんが臨時職員として採用してくれるなど、後押ししてくれたと言います。
「陶芸家として自身の創作活動を展開するにあたって、作業場が手狭になったため、広い作業場を求めて当麻町に引越し、その後はこの旭川の裏山に辿り着きました。それでも、焼き物に使う土は剣淵町に取りにいっていました。もちろん今も剣淵に取りにいっています」。
剣淵町で出会った土を使い、今も変わらずにその土で創作する工藤さん。ではそのこだわりについて聞いていきましょう。
剣淵町の土へのこだわり
神奈川県で生まれ、滋賀県で信楽焼を学び、縁あって北海道へやって来た工藤さん。
地元や本州に戻りたいと思った事はなかったのでしょうか。という少し意地悪い質問をしてしまいました。
「34歳か35歳の頃、北海道でずっと活動していても埒があかないなぁと思ったことはあるんです。山梨や埼玉、実家のある小田原がいいかなぁなんて思った事もあります。陶芸の拠点が北海道にはなく、やっぱり注目されづらいですからね」と工藤さん。
剣淵町に堆積している粘土はユーラシア大陸から黄砂で降ってきたものだそう。
これは4万5千年前から続いている現象で、飛来してきて堆積した粘土は2億年前のものなのだとか。
こういった知識は、偶然にも剣淵粘土について論文を書いていた北海道立地質研究所の八幡正弘博士から直接聞いたのだといいます。
「剣淵町の粘土は細かな粒子が揃っているために、乾燥すると収縮が大きく、陶芸にはとても扱いにくいものでしたが、八幡博士からダイナミックな地球の息吹を感じるこの粘土の素性を教えていただき、これまで以上に焼き物に生かせるように研究を重ねました。結果的にはそれが自分の作風として出来上がっていくことになりました」
有名になるために関東に戻るのではなく、あくまでも自分の作風やオリジナリティを大切にしながらも活動を続けている工藤さん。
「北海道の陶芸家が、北海道の材料を使って焼き物をやる」ことが自然であり、だからこそ「この地に根を張ろう!」と決意したのです。
ほとんど一人でギャラリーをつくりあげる
北海道に根ざす決意をした工藤さんは、自宅隣の旧温泉旅館施設をアトリエにできないかと模索します。
持ち主の方への交渉も無事に終わり、購入してからは大規模な建物改修へと乗り出します。
なんとほとんど自分一人でリノベーションをやっているというので驚きです。
登り窯も工藤さんの自作です。ここは元々浴場だったんだと言います。
「妻にも手伝ってもらいながらですが、ほとんど自分でやりましたね」と笑う工藤さん。
手の届かない高い場所などはさすがに業者の方にお願いしたそうですが、水道管を引いたり、斫り(コンクリートを壊す作業)作業も道具を購入し自分で行ったと言います。
「男湯と女湯の間にあった壁を壊したりね」と笑う工藤さんでしたが、やっていることは解体工や設備作業員さながら。他にも電気工事士の資格を取ったり、コンクリートカッターや油圧ショベルオペレーターにいたるまで色々な道具や資格も必然的に揃っていったと笑います。
「陶芸家さんなのに!」とツッコむ取材陣でしたが「陶芸家だからこそ、創作活動をしながら、リノベーション工事もできるんですよ」とまたニッコリと微笑みます。
「消防設備士や重機整備士の資格も取ろうかと思ってるんだ」とこっそりと教えてくれる工藤さん。
その知識の深さと飽くなき探究心が非凡な才能を感じさせます。
窯場の隣にはアトリエにも続いており、アトリエからは裏庭の風趣に富んだ情景が広がります。
「もともとは宴会場だったので、景観も良いんです」
ここで工藤さんの作品は創られています。
今は2Fもリノベーション中で、ギャラリーをもっと広くして、花器や大型の作品を展示するスペースをDIY中なのだとか。ますます完成が楽しみです。
北海道で陶芸をやるということ
さらに北海道で陶芸を行うことについての面白さも語ってくれました。
「日本の縄文土器が世界最古の焼き物と言われており、日本には約1万5千年前からの焼き物の歴史があります。縄文土器の文化は青森や函館からスタートして南下していきますが、朝鮮から入ってきた弥生時代の知恵は北上し、青森で止まっているんです。そう、北海道では土器以外の焼き物生産はほとんど行われてこなかったのです。それが、明治時代の中頃になって焼き物生産が始まりました」。
アイヌ文化では物々交換で焼き物を手に入れていたこともあり、自分達で生産する必要が無かったのだと言います。
「そういった意味では、1万5千年続く焼き物の歴史の中で、北海道はほとんど未開の土地であるとも言えます。この長い焼き物の歴史の中で自分がその末端を紡いでいると思うと、とても面白いと思いますし、考古学的・歴史的なことを考えると、北海道で焼き物をやることは意味深いと思っています」
この歴史的背景があるからこそ、北海道の土地で、北海道の粘土を使って、この北海道から作品を発信していくことが面白いのだと、工藤さんは目を輝かせて語ります。
工藤さんは歴史についても詳しいですが、花器を創るにあたって華道の勉強もしたそう。日本の陶芸は生活の道具だけではなく、華道や茶道、建築などとの関わりも深く、自然信仰や仏教の影響を受けるなど、たくさん学ぶべきことがあるのだと言います。
日本の歴史的背景を知って、かつオリジナリティを求められる世界で新しい価値を創造していくために、その知的好奇心が工藤さんらしさの一端なのかもしれません。
北海道らしさを表現する白樺
2003年にうつわの全国公募展にて、工藤さんの器が栗原はるみ大賞に選ばれたことをきっかけに、全国で反響が相次ぎ・展覧会なども増えました。
そして北海道にいながら創作活動も続けられるようになった時のこと、工藤さんのお子さんが通っていた小学校で白樺の木が老齢化のため全て切り倒すという話を聞いたと言います。
「白樺という木は基本的には北海道の木、という意識が道外の人達にもありますし、街路樹として生えているくらい私たちの生活に馴染んだ木です。その木が切り倒されると聞いて、その木を全てもらい、灰から釉薬(陶磁器の表面をおおっているガラス質の部分になる)を作ってみたんです」
工藤さんの白樺刷毛目です。
木灰を釉薬にするという手法は古くからあり、それを白樺でやってみたらどうなるのだろうと試してやってみたところ...
「嫌みのない、クリアで透明な焼き上がりだったんです。そこで白い下地のあとに白樺の灰の釉薬をかけて焼くと、本当に白樺のような仕上がりになりました」
見せていただいた「白樺ホワイト」と「白樺刷毛目」は、陶芸に明るくない取材陣もその白樺らしさに心惹かれます。
「北海道の人達には見慣れた木ですし、東京に住んでいる人達はみたことないけどイメージはあるでしょう。だからこの作品を見ると北海道のイメージが頭に浮かぶ。プレゼントの時にも話が広がるでしょう。物は人と人との関係をひろげます。北海道らしい焼き物になったなぁと思ってます」
この白樺シリーズが出来たのが2012年頃。
その後立ち上がった白樺プロジェクトに参加しないかと声をかけられて、工藤さんもこの白樺シリーズで参加しています。
北海道に根ざしたからこそ出来上がった工藤さんの陶芸作品。
古くからある日本の焼き物文化を紡ぎ、そして北海道の陶芸文化を創り出す工藤さんは、北海道らしさや北海道での暮らしを表現している素敵な方でした。
そしてこれからも工藤さんは「体の動くまで剣淵町の土を使って作品を創っていきます」と柔らかい笑顔でこたえてくれました。
- 陶芸家 工藤和彦さん
- 住所
北海道旭川市東山2857-58
- 電話
090-6211-1797
- URL
ギャラリー『ウラヤマクラシテル』HP:https://urayama.org/