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八雲町

目指すのは、消費者にストーリーを伝え価値を共有する漁業!20200525

この記事は2020年5月25日に公開した情報です。

目指すのは、消費者にストーリーを伝え価値を共有する漁業!

二海郡八雲町といえばその名の通り、太平洋と日本海のふたつの海をもつ町として有名です。水産業が盛んではありますが、もともとは落部(おとしべ)村、八雲町、熊石町の3市町村が合併してできた町であり、それぞれの地域で異なる漁業が展開されています。太平洋側の八雲地域がホタテの養殖が盛んなのに対して、日本海側の熊石地域では、タコ漁がメインといった具合です。
その八雲町の日本海側にある熊石地域で、地域の漁業を持続させるためにチャレンジを続ける最年少漁師さんがいると聞き、さっそくその方、平井裕太さんに会いに熊石へと向かいました。

もうすぐ熊石に着くというころ、平井さんから電話がきました。「今日は潮の流れが良くないので、もしかしたらタコは捕れないかもしれないです。。」
素材としてタコの画(写真)がとれないかも、ということを心配してわざわざ事前に連絡をくれたのでした。
そのおかげで代替案も考えつつ現場に到着ましたが、、、待っていたのは平井さんと、そのお父様と、そして、4匹の立派なミズダコたちでした!
5D3B6392hiraigyogyoubu.JPG手と比べるとその大きさがわかって頂けるはず
タコとの対面はあきらめていただけに、興奮気味の取材陣に、平井さんのお父様が笑顔で水揚げの手順を説明してくれます。
「今日は何とか4匹だけとれました。まずは船からあげたら、ネットに入れて船の名前札をつけて、出荷まで水槽に入れておきます。今日のは大きくても22~23キロくらいだから小さい方かな、大きいのだと30キロ以上になるんですよ」

ひととおり船や海での撮影をしたあとは、熊石とは反対の太平洋側、八雲地域に移動します。平井さんのお友達の営むゲストハウスに場所を移して、本格的にお話を伺いました。

東京への未練

平井裕太さんは、昭和57年生まれの37歳、熊石生まれの熊石育ちです。高校卒業後は札幌に出て卸売市場内の会社に勤務しますが、実は一番やりたかったことは別にありました。それは、たくさんの人に笑いを届けるお笑い芸人になる!ということ。その夢に近づくために、まずはしっかり働いてお金を貯めようと思っての就職でした。ところが、その会社のほとんど休みの無い待遇面や、あまりの長時間勤務に疲労困憊、半年で退職を余儀なくされます。そのあとしばらくは、アルバイトをしながら、お笑いの勉強をするでもなく、貯金にチカラを入れるわけでも無く、どちらかというと遊びのほうに重点を置きながら、ただ無為に過ごすという日々が続きます。

『都会に住んで、そこそこ収入もあって、毎日楽しかったです。でも、飲みに行っても、カラオケに行っても、あ~楽しかった、ただそれだけなんですよね』
5D3B6668hiraigyogyoubu.JPG海での作業の時とは別人のように(すいません。。)おしゃれな出で立ちで現れた平井さん。

目標の無いむなしさが限界に達し、ようやく、このままではいけない!と本来の目標にもう一度向き合い、東京に出たのは22歳のときでした。
上京すると早速、大手芸能事務所の養成所に入り、これと思った相手を見つけてはコンビを組んでネタを考える日々を過ごします。しかし、当然のことながら現実は厳しく、全国から集まって来るあまたの芸人志望者の中で、他の人より一歩前に出るのは想像よりはるかに難しかったのです。何度ネタ見せをやっても、担当者から良い反応は得られず、2年がたつころには平井さんは自分の限界を悟ります。

そんな頃実家では、スケソウの延縄漁にてんてこまいで、お母様がけがをしてしまうというアクシデントがおこっていました。幸い骨折ですみましたが、とうとうお姉様から平井さんのもとへヘルプ要請の連絡が入ります。
「自分ももう無理だと何となくわかっていましが、あきらめるきっかけがつかめずにいました。そんなときに実家の状況を聞いて、心が決まりました。母は、今でも自分のせいで夢をあきらめさせたと謝りますが、そうではないです。自分が母のけがを利用して踏ん切りをつけたんです」

こうして、25歳で実家に戻った平井さんですが、そこから漁師として本腰を入れたかと言うと、どうやらそうではなかったようです。
「戻っては来ましたが、バイトをしたり、札幌に遊びに行ったり、時々漁も手伝うという中途半端な状況を続けていました。都落ちとでもいうようなその状況を受け入れられず、前向きになれないままでした」
5D3B6549hiraigyogyoubu.JPGせっかくなので親子三人で記念撮影

漁師って稼げる!?

でもそんなある日、平井さんが漁師も悪くないかも、と思う出来事が起こります。
きっかけは、お父様とともに漁をするお兄様がヘルニアになってしまったことでした。タイミングの悪いことに、それはちょうど、エゾバカ貝(あおやぎ)という貝の漁期でした。この貝は短時間の作業で高収入が可能なため、どうしても漁期を逃すことができません。そこで平井さんがお兄様の作業を全て担当することになりました。
「朝5時から9時くらい、週に数回の漁で月に約60万円くらいになりました。それまでの、手間賃的だった収入とは雲泥の差です。単純に『正式な漁師になると稼げるんだな~』と思いました」

それともうひとつ意外な理由がありました。平井さん、実は船酔いしやすいのだとか。。
「エゾバカ貝漁は、船の後ろで何百キロもあるようなカゴを引っ張って走るので、船が安定してあまり揺れないんです。だから船酔いしないし、その日は快晴で、母のおにぎりは美味しくて、貝は大漁で、この上なく気分が良くて。あー、漁師っていいなって思っちゃったんですよね(笑)」
もちろん、そんな日ばかりでないのはわかっていましたが、このとき味わった充実感は、平井さんの心を大きく動かしたのでした。

実は東京に借りたままだった部屋をこのあとすぐに引き払い、とうとう東京への未練を断ち切ってからは、「稼げる漁師」を目指してお父様の船にのって手伝ったり、小さな磯舟でウニをとったりと、出来ることから経験を重ねていきます。しかし、メインとなるタコ漁は基本1人で行う漁なので、漁師として一本立ちする以上はどうしても自分専用の船を持つことが不可欠です。そこで、腹を決めた平井さんは、他の船の乗組などをして少しづつお金を貯め、引退する漁師さんの船を安く譲ってもらって、3年かかってとうとう自分の船を手に入れたのでした。
5D3A2207hiraigyogyoubu.JPG漁師になると決めたのもこんな天気の良い日でした

厳しい現実

しかし、本当の苦労はここからだったのです。
もともと檜山管内の水揚げ水準は北海道の中でも1位2位くらいに低いのだそう。当然、大きな船を購入するのはかなりのリスクがあり、それをペイする程の水揚げをするのは厳しいぞ、と反対の声も少なくなかったと言います。覚悟はしていましたが、その厳しさは予想以上だったのです。悪いことに、平井さんの努力ではどうにもできないことがおきていました。それは資源の減少、もっと言えば枯渇です。

ここで改めて平井さんの漁業スタイルを詳しく聞いてみます。季節によっていろんな魚種をとることから季節漁師と呼ばれ、ほぼ通年で行うタコ漁を基盤として、冬のタラとサクラマス一本釣り、4月から5月にかけてのやりいか小定置網、5月のナマコ漁、7月中旬から8月下旬までの天然ウニ漁、その他、春と秋のアワビ獲り、などを組み合わせているそうです。
しかし、収入が見込めるはずのウニもアワビも、資源の減少に歯止めがきかず、アワビにいたってはこの2年ほどは漁ができていないとのこと。ウニは天然物以外も何とか出荷できる状態にするため、エサに工夫を凝らしたり手間ひまをかけて港で養殖をしていますが、まだまだ充分な出荷量には至っていません。
「実際、漁師になったきかっけのエゾバカガイ漁も、次の年から禁漁になり、資源保護を試みてもうまく回復せず、結局船を持ってから一度しか漁ができてないんです」
原因は外敵のツメタガイとか、貝自身が過密になることなどが言われていますが、結局はっきりしないまま、本格的な調査も未定といった現状です。漁師は稼げるやりがいのある仕事と思って、必死で船を手に入れ、これから自分の腕一本でがんばろうと思っていた矢先、自分だけではどうしようもできない問題が立ちふさがったのでした。
5D3B6383hiraigyogyoubu.JPG平井さんの船 寿丸

孤独な挑戦

悶々としながらも、出来ることを模索する日々が続きます。ある日、鹿部町にある漁業研修所に無線の免許を取りに行ったときのことです。
「そこに来ていた近隣の町の漁師から、熊石の水揚げ量を馬鹿にされたんです。例えば、自分たちはタコが豊富にとれる地帯を産卵線と呼んでいますが、その産卵線もその町の沖の方がしっかり入っていて、熊石のあたりはうすい線しか入ってない。だからタコだけとってもその町の水揚げ量の方が多いんです」
相手が何か特別な工夫や努力をしているわけではないのに、むしろ取れないから自分の方がすごく考えて工夫してるのにと思うと、平井さんは猛烈な悔しさがわいてきたそうです。
「同じ漁師にバカにされて、初めて悔しいいう気持ちがわいてきました。何とかしてやる!と奮起しましたね(笑)」

さてどうするか、平井さんは考えます。
「資源量の問題は今の所、自分だけではどうしようもない。じゃあ、限られた資源に何か付加価値をつけるしかないのでは?と考えました」
ちょうどそのころテレビでは、神経締めというものが取り上げられていたそうです。その処置を施した魚は普通の状態よりも鮮度が保たれ、味に格段の差が出るのです。

「これだ!と思いました。例えば他の漁協がタラを五百円で売るならば、この神経締めをして鮮度抜群という付加価値をつけたタラを千円で売れば、どうだろうかと。そのアイディアを桧山の漁協に持って行きました。桧山漁協というのは、もともと単体だった周辺8つの漁協が合併してできているので、熊石単体でやるより可能性が広がるのではないか、少人数でやるより、桧山管内でまとまった方がロット数も増えるのではないか、と自分なりに色々考えた末での行動でした。でも、結果は、全く相手にされませんでした」
5D3B6500hiraigyogyoubu.JPG
ある程度予想はしていたとはいえ、何十年も続いてきたことを変えたり、新しいチャレンジをすることに対する抵抗は、想像以上のものでした。「結局、ここで漁師やるってこんなもんかって思いました」。言葉を選ばずに言えば、あきらめて何も挑戦しようとしない漁師の世界に絶望しそうになったということでしょう。そんな平井さんを支えたのは、唯一味方でいてくれる家族と、考えることをやめるくらいなら、ここで自分が漁師を続ける意味はない、という強い思いでした。
実際その後も、販路や販売方法などを考えては提案しに行きますが、「悪いけど協力はできない、あきらめろ」と返されるということを何度も繰り返したといいます。

現れた仲間たち

平井さんの人生に大きな影響を与える、落部(地域)の漁師、館岡勇樹さん・志保さん夫婦が熊石にやってきたのはそんなときでした。考えては行動し、くじけてはまた奮起して、と何とか自分を奮い立たせてきた平井さんでしたが、それが4年続いたころには、とうとう「熊石で漁師をやるのは限界かも、漁師やめたほうがいいのかな」と思い始めていたそうです。
驚くことに、平井さんはその日の日付をすらすらと口にします。「一昨年の6月の22日です。その日だけはこの先も忘れないと思います」と。

「最初は、『落部の漁師が話をしたいと言ってるから会ってみて』と役場から言われて、正直めんどくさいな、と思ってたんです。普段だったら、断っていました。乗り気でない理由は、八雲や落部は、今は同じ八雲町になってるけどもともとは違うまちだったわけで、熊石とは関係ないという意識だったことや、ホタテ養殖などが盛んな八雲の漁師は、熊石をバカにしているという噂を信じていたことなどでした。でもその日は、数年ぶりに行われたエゾバカ貝の漁期を終えた日で、とても気分が良く、会ってもいいよ、と答えたんです」

そんなこともあって、喧嘩を買うような気持ちで鼻息荒くのぞんだ会談でしたが、会って五分で気持ちが変化したと言います。
「あ、この人たちは違う。自分が今まで考えてきたことよりももっともっとすごいことを考えて、しかも実行してる!」
しかも、聞けば、熊石の漁師と交流したいから誰か紹介して欲しいと役場に二年前からかけあっていたのですが、行っても無駄だと言われ続けたのだそう。それでもあきらめずに、ねばって今日ここに来てくれたのだと知りました。

館岡さん夫婦は、噴火湾鮮魚卸龍神丸という名前で5年前に創業し、地元でとれるカレイなどに付加価値を付け、こだわりのあるものを求める消費者に直接届けるということを始めていたのでした。平井さんがチャレンジしようとした神経締めはもちろん、すでに多くの新しい試みにチャレンジし、そしてそのことに対する反発や、心ない言葉も平井さん以上にうけていたのです。にもかかわらず、同じ思いを持ってがんばれる漁師がいるんじゃないか、自分達が5年間やってきたことで何か渡せるものがあるんじゃないか、という一心で熊石まで来てくれたのでした。
「ああ、きっとこいつらは一生一緒に仕事をする仲間になるな、と思いました」

つながりが次のつながりへ

そしてその出会いは、さらなる出会いも生んだのでした。館岡さんのつながりで、漁業や食など様々なイベントにも足を運ぶようになった平井さん。とある会場で、今日お話をうかがっているこの場所"ゲストハウス SENTO"のオーナーである赤井義大(よしひろ)さんに出会います。話してみると、平井さんのお父様とウニを通してつながっていたこともわかり、すっかり意気投合します。というのも赤井さんは、ゲストハウスに来る外国人に、是非地元のウニを提供したいと、平井さんのお父様が育てたウニを買いつけてくれていたのです。
いまでは"よっち"と呼ぶ無二の親友、赤井さんとの出会いでした。
5D3B6640hiraigyogyoubu.JPG左が赤井さん。ゲストハウスSENTOの庭にて
さらに話してみると、実は赤井さんは以前から熊石にもちょくちょく足を運んで、お祭りに参加したりイベントを手伝ったり、同じ八雲町なんだから一緒にがんばろうと、地元を盛り上げるために行動してくれていたことを知ります。
「龍神丸のふたりも、同じ八雲の同じ漁師なんだからと、自分たちが5年間苦しんで手に入れたものを、俺に与えてくれようとしていました。彼らに会って初めて、自分は今までなんて狭い見方しかしてなかったんだろうと気づきました。本人には言わないけど、自分にとって大恩人だと思っています。この先もしも彼らが何か大きなものと敵対して、まわりの人が離れていくようなことがあっても、自分だけは絶対に味方でいようと決めています」

ちょっとはにかむ平井さんですが、それが本気なのが伝わってきました。

彼らと出会ったことにより、孤独だったチャレンジは大きく変化します。一番嬉しいのは、それぞれの地域や立場で、平井さんのようにチャレンジを続ける仲間がたくさんいると知りえたこと、そして彼らとつながれたことでした。

例えば、道北の苫前町で、タコ漁師として漁業の持続性を向上させるためのプロジェクト(FIPと呼ばれるそうです)に挑戦する小笠原さん(くらしごとの記事あり小笠原さんについて FIPについて)や、焼尻島でマグロ漁師を続けるために戦う高松さんなどです。その他全国各地の、自分たちの獲る海産資源の価値向上やブランド化などに取り組む漁師さんたちとも積極的に交流を図るようになりました。
館岡勇樹さんが代表をつとめ、次の世代に漁業を残すための活動をする「蝦夷新鮮組」 という団体や、全国の意識の高い漁師たちの集う「全国やから連合」などのメンバーとの交流もとても良い刺激になっていると言います。
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「もし、彼らと会うのがあと三年早かったら、お互いのことを気にも止めなかったはずです。考えることをあきらめない自分になれたから3人に出会えたんだと思います」
そして、こうも続けました。
「この2年間は、今までの人生で一番楽しいです。収入は一番少ないけど(笑)」

視線の先に消費者の姿が

今や、見える景色は熊石から北海道へ、全国へと広がった平井さん。そして、以前と違うのは、その先に消費者の姿を見るようになったことでした。
「今の漁業に必要なのは、消費者との距離を縮めることだという考えに至りました。農業ではトレーサビリティなどがすすんでるのに、漁業では相変わらず生産者の顔が見えないままです。もっともっと消費者との距離を縮めなければ、漁業に対して興味も思い入れ も持ってもらえません。 漁業者それぞれが持つストーリー、つまり、どんな手間をかけてどんな思いで生産してるのか、それを知って初めて、興味を持ってくれたり応援しようという気持ちになると思うんです。 顔が見える漁業というよりも、全部が見える漁業(笑)が理想です」

そのために最近は、仲間の協力を得ながら、生産者の顔が見えるイベントを積極的に開いているそう。
実は最近も、館岡さん夫婦や赤井さんの尽力もあって、八雲の生産物を提供する東京の居酒屋にて、イベントが開かれる予定になっていたのです。残念ながらそのイベントはコロナの影響でいったん中止となってしまいましたが、その予行練習として先に開催した地元でのイベント、名付けて"裕太Night"は大盛況だったそう。

「最初はよっちが司会進行をしてくれて、自分はその質問に応えるというカタチでした。漁師になったきっかけや、今やっている仕事の詳しい内容などを自分なりに話しました。すると途中からはどんどん質問も出て来て、ディスカッション的になって、盛り上がったのは嬉しかったですね。八雲町には他にも面白い生産者がたくさんいますので、生産者nightとして定期的にやっていきたいですね」
hiraigyogyoubu22.pngゲストハウスSENTOに隣接するレストランで開かれた裕太night!約40人もの人が訪れ、平井さんの獲った海の幸とトークを楽しんだ

これからやるべきこと

苦労は多いけど、今が一番楽しい、と話してくれた平井さん。これからやっていきたいこと、やるべきことを改めて聞いてみました。
「今一番目指しているのは、"平井漁業部のブランディング"です。例えばウニの養殖では、味を少しでも良くするために、エサとなるコンブ自体も一から育て、それが不足する時期は鮭を与えてみたりと、常に試行錯誤しています。タラやサクラマスは電動リールで釣り上げると魚にストレスを与えてしまい味が落ちるので、非効率でも1本1本手で釣っています。そうしたストーリーは、当然ながら店頭や食卓に並ぶときにはお客様には見えません。ただ"この魚は美味しい"とか"高級品だ"だけではない、そんなストーリーをのせた"平井漁業部のタコ"や"平井漁業部の〇〇〇"を通して消費者の方と価値を共有したいんです、それが今の一番の目標です。ちなみに今後は、さらに付加価値を高めるための加工にもチカラを入れていきたいと考えています、そのための水産加工の許可もとりました」

そして、苦手だったSNSにもチカラを入れていると言います。
「正直、苦手でした。基本的に人見知りだし(笑)。でも今はFBの他にも、ターゲット毎にツイッターもインスタもやるようになって、自分でもびっくりです。 前まではこんな田舎、誰も興味をもつはずがないと思っていました。でも今は違います。SNSを通して、普段の漁の様子や町の風景など、自分たちにとって当たり前だからといって他の人にも当たり前とは限らない、ということを教えてもらいました。例えばただタコを袋に詰めてる動画。これにも町外の方や、消費者の方はたくさん反応してくれます。そういうものをどうやって発信するか、どう見せるか。今、真剣に考えています」

そうした情報発信や仲間の紹介などにより、少しずつ、目指す姿に近づきつつあるそうです。道内のある高級寿司店の店主は、天然物より若干味が落ちるのは承知の上で、平井さんの養殖ウニに興味を示し、是非会って現場を見たいと言ってくれたそうです。
「養殖の取り組み自体、つまりストーリーを付加してお客さんに提供しようとしてくれたことがとても嬉しかったですね」
hiraigyogyoubu20.JPG左手にあるのがタコ漁で使うしかけ。知恵と工夫と経験が詰めこまれています
こうした取り組みは、ともすれば、"自分だけ儲かればいいのか"という批判にさらされることも少なくないといいます。水揚げされた海産物は全ていったん漁協に出荷し、その手数料を支払う、という今の仕組みでは、一人一人が勝手なことをするより、1匹でも多く獲って手数料を納める方がみんなのためになる、という考えからです。
「もちろんそれも正しいと思います。でも今は、1匹でも多く獲るというだけでは資源保護の観点からは離れてしまいます。ただ売るのではなく、大事な資源に付加価値をつける努力をして、消費者とその価値を共有することが、これからの漁業には必要になると思っています」
数年前まで目標を見失っていたとは思えない程、自信に満ちた言葉です。

「さっき話した全国やから連合や蝦夷新鮮組のメンバーも、それぞれの立場でいろいろなものと戦っています。そしてメンバーそれぞれのスタンスがあります。中には、結果を出して黙らせる、という人もいます。 でも僕は、結果を出して黙らせるというよりは、伝わるまで想いを伝えるというスタンスです。そうやってきた結果、まわりに少しずつ変化も起きてきました。実はこの間、熊石地区の青年部部長に任命されたんですが、任命したのは、以前に、『そんな ことやっても無駄だ』と神経締めの話をつき返してきた人でした。異動になる前にその人が言ってくれました。『これからを頼めるのはお前しかいない。好きにやれ、困ったら協力するから』と。 だから、結果を出して黙らせるというより、時間がかかっても、意見を出し合って一緒にやっていきたいんです。だってその方が楽しいから!」

取材中、何度も平井さんが口にした「自分でもこんなに変わることができた」という言葉。今の充実ぶりが伝わってきました。それと、「自分が今までしてもらったように、今度は誰かの背中を押してあげられる存在になりたい。でも自分もまだまだだから、手を差し伸べてくれる人には遠慮なくつかまろうと思ってる 」という言葉。これからも多くの人と協力してみちを切り開いていくことでしょう。

帰宅後、お土産に頂いたタコを平井さんお薦めの方法で調理し、タコパーティーをしてみました。港での平井さんやお父様の顔を思い出しながら味わうタコ料理は最高に美味しく、そして気づきました。これが平井さんの言うストーリーも味わうということだと!

hiraigyogyoubu21.jpg最近はzoomを使って、オンラインで消費者とつながる活動もしているそう!

平井漁業部 寿丸 平井裕太
平井漁業部 寿丸 平井裕太
住所

北海道二海郡八雲町熊石

URL

https://www.facebook.com/people/平井裕太/100027550877283


目指すのは、消費者にストーリーを伝え価値を共有する漁業!

この記事は2020年4月16日時点(取材時)の情報に基づいて構成されています。自治体や取材先の事情により、記事の内容が現在の状況と異なる場合もございますので予めご了承ください。