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札幌市

転びながらも歩き、㈱北加伊道に辿り着いた4人の物語【後編】20210709

この記事は2021年7月9日に公開した情報です。

転びながらも歩き、㈱北加伊道に辿り着いた4人の物語【後編】

【前編】はこちらから

地域で宿泊拠点を持ちながら第一次産業を中心とするワーケーションを展開したり、アプリ開発を通して地域の魅力を再発見・発信し、地域の新しいコミュニティーの形を構築していくことを目指し設立された株式会社北加伊道。
設立メンバーの4人がここまでに至った経緯について、ご自身のプロフィールにさかのぼってさらに掘り下げてみました。

第一次産業の人事採用のサポートを

代表取締役の一戸隆毅さんが、前職の税理士法人にいた時の主なお客様は酪農業の方でした。その法人は税理士業務と記帳代行を担っており、一般の企業は記帳は自社で行う会社が多いですが、酪農業は365日稼働のため、丸ごと依頼する会社が多かったのです。そこから派生して、人事採用のサポートも行っていました。

kitakaido_10.JPG代表取締役 一戸隆毅さん

「どこも万年人手不足。要因としては、地方に移住を伴う転職が難しいこと、各々のPRがうまくいっていないことなどから、ただハローワークに求人を出しても応募がない。経営者や従業員の方も、自分たちのいいところにはなかなか気付けないため、第三者目線で会社のPRをしていました。ただ移住を伴う場合、事業だけでなく地域のPRも必要です」

税理士法人在職中に、従業員50人だった会社を100人まで増やすミッションを達成。他社からも依頼の声がかかる中、税理士法人では法律上アウトソーシングができないため、独立し、第一次産業や地方の企業の期待に応えることにしたのです。

事業の立ち上げ、閉鎖の苦い経験からの学び

一戸さんは、大学卒業時に行政書士資格を取得。行政書士事務所を経て、ゲーム業界のベンチャー企業に入社しました。法務の責任者としてゲームのライセンスや商標の管理をするために入社しましたが、小規模の会社での新規事業立ち上げに際し、人事業務も行うことに。これが一戸さんが人事に関わった最初の仕事でした。

「採用から携わり、最終的にはその事業の運営が難しくなり、部署をたたむことに。メンバーの再就職支援をして、全員の行き先を決め自分も退職を余儀なくされたのです。そこでは労働紛争も経験し、入社してからではなく水際で防ぐために採用段階でミスマッチがないよう戦略を立てることが重要だと学んだのです」

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一戸さんは、企業と求職者の間に立ってマッチングする人材紹介ではなく、企業側の名刺を持って、採用責任者として就業規則の整備など受け入れ体制の構築からサポートする人事労務のアウトソーシングという形をとっています。

「私たちの世代は、定年制度がどんどん長くなり70歳くらいまで働く人が増えると予想されます。新卒から働く中で、転職を経てキャリアアップしていく人も多いですが、私も転職で苦労した経験から、転職させることが全てではないと感じています。そこで転職をさせることで成立する人材紹介ではなく、会社側の立場から、スキルマッチだけでなくマインドマッチを大切にして採用のサポートをすることにしました」

酪農業の雇用の新たなステップを

求職者側にはまだ第一次産業が選択肢として浸透しておらず、職業の一つとして発信しているという段階。現場では日本人の担い手が不足しており、一方で外国人の技能実習生を活用していました。

「彼らは技術を国に持ち帰るためにも真面目に働いてくれるので、いち労働者としてはありがたい存在なのですが、期間が終わると国に帰ってしまい、継承者がいないという問題の解決にはなりません。事業者を未来永劫残すためには日本人が欲しいのです。働き手として一定期間いてくれる人ではなく、継承者としてこういう人が欲しいという設計が求められています」

酪農の業務は牛の個体管理、搾乳、飼料(えさ)作りの3つに分かれますが、昔は各農家が自前で行っていた飼料作りを地域で出資して代行させるTMRセンター、いわば牛の給食センター化が進んでいます。現在は全道に約80のセンターがあり、一戸さんは全道のセンターを統括する北海道TMRセンター連絡協議会の事務局長を担っていました。

「例えばTMRセンターで人材を採用し、各農家さんにもヘルプで入れると、雇用もでき農家さんの負担も減らせます。協議会を通じて企業説明会をするなど採用の仕組み作りを進めています。TMRセンターという入り口があるのを知ってもらえれば、そこから新規就農も期待できます」

起業を志し、「ただいまと言える空間作り」が柱に

kitakaido_11.JPG取締役 柴田涼平さん

柴田涼平さんは稚内で生まれ、サッカーのプロを目指し札幌の高校、神奈川県の大学に進学。プロの壁は厚くサッカーの道は諦めることになりますが、大学生から「新しい挑戦がしたい」と起業の道にシフトしていくことになります。
そこで仲間と一緒に、地元の人との交流を軸とした「ジモトリップ」という企画を考案。

「最初は、東京の仲間を自分たちのゆかりのある北海道に連れていくツアーを地元の友人と企画しました。その旅が好評になり、『出会いの場と交流が大事だよね』と実感し、大学卒業後に札幌で地元の人が歓迎する完全交流型のゲストハウスを計画しました。目指したのは、イベントではなく日常の中で『ただいまと言える空間作り』。当初は『起業したい』という手段が目的になっていましたが、この土台ができて気持ちが安定しました」

大学卒業後すぐの起業に、不安はなかったのでしょうか?

「もちろん失敗したら...という不安はありましたが、リスクには感じませんでした。応援してくれる方で『失敗したらうちに来ればいい』と仰る方もいて、一年挑戦して失敗しても、ここで得た経験あればどこでも就職できると思ったんです。また、大学時代に富士山の山小屋でリゾートバイトをしたことがあって、78日間山にこもって日給が1万円弱。お金を使うこともないので75万円貯まります。なので、もし事業で失敗して借金を100万円背負ったとしても、『また山に籠もればいいか』と腹をくくれました」

側で聞いていた学生起業家の近澤さんも、「僕も失敗したら富士山行きます!」と同調。

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あらゆる境界を融かすことが使命

単に宿泊所の運営ではなく、「ただいまと言える場所づくり」を軸に活動。1号店として札幌に作った「ゲストハウスwaya」は、柴田さんの会社のアイコン的存在だといいます。大学卒業した年の2014年6月に起業、10月にオープンしました。以来、宿泊施設を札幌に3軒、小樽に2軒、シェアハウスを札幌に1軒立ち上げ。
宿泊場所だけでなく、滞在する外国人と地元の子どもが交流できる学童保育とフリースクールを運営するNPO法人E-LINK理事にも就任。ゲストハウスとして学童保育の認可を取得したのは世界初だといいます。

「日本は孤島なので海外の文化、人と接する機会がないですが、日常的に触れる機会を作れば苦手意識がなくなると思いこの場を作りました」

コロナ禍で外国人が来られなくなってからも、以前長期滞在しながら働いていたメンバーなどとオンラインでの交流も行いました。また、オンライン宿泊も好評を博しました。

「ゲストハウスでは来てくれる方を歓迎していましたが、来られない方は盲点でした。障がい者や遠方の方、学生、シングルファザーやマザー。そういった方とオンラインでつなぎ、ゲストハウスのラウンジのような空間を味わってもらいました。時差を超えて『おやすみ、おはよう、行ってらっしゃい』と言い合える交流は、尊いと思いましたね」

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ゲストハウスで仲が悪いフランスとドイツの人が同時にチェックインで鉢合わせし、最初は険悪な雰囲気が流れるも、「どうして札幌に来たの?」などと話しているうちに意気投合する場面などを何度も目撃した柴田さん。

「関われる余白を作る橋渡しが僕たちの役目。ワーケーションについても、地域と担い手を橋渡しし、あらゆる業界の垣根を融かす役割を担っていきたいです。素敵な活動をしている地域を知ってもらい、小指が触れるくらいの小さなきっかけでいいので作っていきます。地域の人の思いをヒアリングし、ここの人に合いそうだと思う人に丁寧な届け方をしていきたいと思っています。

作りたいものより、残したいものを丁寧に残す

柴田さんは他にも、北海道というキーワードだけでつながるオンラインサロン「北海島プロジェクト」通称「島プロ」を立ち上げ。現在島民は200人を超えています。

「2100年に日本の人口は5700万人になるのに対し、世界の人口は83億人にまで増えると予測されています。国内でパイを取り合えば淘汰されますが、勝ち負けをやめて仲間になれば、敵がいなくなるから無敵になるという状態を目指しています。競争するのではなく、北海道の良いものを発掘して世界に届ける、これをゆっくり丁寧に行っていきたいですね」

コロナ禍の緊急事態宣言下で飲食店に何かできないか?と投げかけたところ、「酒屋店主の背景や物語を届けるサイトを作ろう!」と、あっという間にボランティアのチームが立ち上がり、わずか4日ほどで酒屋さんのポータルサイト「酒屋物語」が完成しました。開始当初は7軒が呼びかけに対応し、まだまだ増えそうだとか。
「こういうことをしてるうちに仲間が増えて財産になる」と柴田さんはいいます。

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柴田さんのお話の随所に出てくる「丁寧」という言葉。「僕たちは、10代で東日本大震災を経験し、『モノは作っても壊れる』と刷り込まれました。だったら、作りたいものより残したいものは何かと自問し、『丁寧』がキーワードになっていきました」

医師を目指しながらIT起業の道へ

医学部の学生でありながら仲間とIT企業を立ち上げた近澤徹さんは、「大企業と連携した事業を回していて、北海道の若手経営者でM&AとかIPOを目指せる数少ない存在の一人」と柴田さんは絶賛します。

kitakaido_15.JPG取締役 近澤徹さん

祖父が心臓外科医という環境から、外科医目指すようになったという近澤さん。「父が病院を継ぐはずだったのですが、バンドマンになりたいと高校を中退したので、僕には医者を目指してほしいと言われていました。ちなみに僕も父の影響から音楽が好きで、高校時代もギターを練習しましたが挫折してしまいました。将来、いつかはバンドを結成したいですね」

パンクやロック系の音楽が好きで、デジタルで音を作るのも好きだったそう。そんな多才な近澤さんが高校生のころに熱中したのが、プログラミングでした。自動売買システムを構築して運用し、利益が得られるようになると、起業寄りのマインドになっていったといいます。

仲間を増やして、海外に飛び込み営業

北海道大学医学部入学後にフリーランスとして創業し、仲間も増えていきました。最初は、産官学連携による「北大リサーチ&ビジネスパーク」主催の「世界を変える! ビジネスアイデアコンテスト」で競合だった学生と意気投合し、ビジネスパートナーになることに。その後は、「そのパートナーと一緒に、できるやつを探しに道場破りのように、いろいろな大学やコミュニティーに行って、『俺よりできる奴いるか』って(笑)。そこで二人の仲間が加わりました」

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当初は、飛び込み営業に回りましたが相手にされなかったといいます。

「海外なら日本の大手もベンチャーも区別がつかないんじゃない?と、海外に営業しまくることにしました。大学の留学生とチームを組み、フランス語、中国語、タイ語を駆使して『1,000社に打ちまくろう』と。実際は100社以上打った中で、最初に打った北京大学発のベンチャーから良い返事をいただきました」

世界を視野に入れITと医学の融合を

会議は中国語で同時通訳しながら。展開したのはサービスのローカライズです。例えば中国のアプリを日本に進出させる際、中国人に合うものが日本人に合うとは限らないので、翻訳だけでなく日本人に合わせたデザインやサービス設計をカスタマイズします。

「北大の留学生は国を代表して来ているような優秀な学生が多いので、普通のアルバイトより能力を活かせる収入源にしていきたいですね」

学生とは思えぬビジネスセンスと、若さあふれる行動力でビジネスを進める近澤さん。夢は「世界を取ること」と言い切ります。

「父の影響でクイーンのフレディーマーキュリーが好きで。あの言葉にできないカッコよさにどうやったらたどり着けるか考えています。死ぬまで目指し続けたいですね」

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将来的には医療的な知識を生かしたITサービスを構築し、国と国を結ぶ越境医療を実現して日本の医療の信頼性、クオリティーを世界に発信していきたいと語ります。

寿都町を飛び出し、経営者となるまでの道のり

齊藤将さんは、寿都町出身。札幌の専門学校卒業後、「田舎に住んでいたから、首都で働かないと日本のことがわからないのではないか」と考え、上京。結果、「住むところではないな」と感じ2年で北海道に戻りました。

「特にやりたいことがなくて、一番やりたくなかった営業職をやってみることにして、建築関係の会社に入ったんです。営業職は、昔テレビドラマで見た遅くまで働いて上司に叱咤されて...というイメージが強くて(笑)。でも実際やってみたら、時間を自分でコントロールできるし、数字さえ上げていれば認められるので、実は向いていました(笑)」

kitakaido_18.JPG取締役 齊藤将さん

その後、更なる成長を求め、経験があった建築の会社でノウハウを積み、広告代理店でマーケティングも学びました。そして住居や店舗から小型のマンションまで、新築・リフォームを手掛ける自分の会社を立ち上げ現在も勢力的に活動しております。

仲間同士で自由に動けるコミュニティーを立ち上げ

また齊藤さんは、堀江貴文さんが主催するオンラインサロンHIUに参加し、そこで知り合った札幌の仲間と「アフタースクール」というオンラインコミュニティーを立ち上げます。

「HIUでもさまざまなイベントが企画されましたが、北海道のメンバーが少なく人数が集まりませんでした。『もっとたくさん札幌の起業家を集めて面白いことできたらいいね』と、自分たちでフットワーク軽く動けるグループを立ち上げたんです」

以後はHIUメンバーに関わらず興味を持った人が集い、人数は80人以上に。ススキノのバーを拠点に飲み会や花火大会、フェスを企画するなど、やりたいことを自由にできるスタイルです。

kitakaido_19.jpg2019年に行われたアフタースクールのイベント

アフタースクールの理念は「みんなで楽しく」。

「わざと細かいルール決めずに、一人一人がイメージ構築して仲間と話してブラッシュアップしていくうちに、自然にルールができます。そうすると、メンバー間で企画が立ち上がって動き出せるようになり、コミュニティーが自走し始めます。誰かが先頭に立って指揮を取っている状態では不完全で、一人一人が自走するまで作り込むのに圧倒的時間と労力を使うべきだと考えています」

2年間続けてこられたのは、「自分たちはこのグループがないとこれから楽しめないと思ってくれてる人が多いから。特にコアメンバーは友人や家族より過ごす時間が多いですね。リアルの時間もそうだしネット上の時間も大事です。会ったことなくても、話した時間に比例して信頼が溜まっていきます。ネットって大丈夫なの?と言う人もいますが、むしろネットの方が信頼を積み重ねる速さは早いと思っています」

仕事のつながりではない本質的なコミュニティーを

齊藤さんが目指すのは、「本質的なコミュニティー活動」。

「ビジネス上のつながりを作る活動が多いと思いますが、そうではなくこの人のことが好きだから一緒にやるという関係づくりを目指しています。これからは人が会社に使われるのではなく従業員が会社を利用する時代だと思いますが、コミュニティーもそうで、箱を作ってそこで自由にやれる環境を作っています。今まで色々な失敗もして来ましたが、その中でも自分に付き合ってくれる友達がいました。本当の人間関係ってこういうことなんだと身に沁みてわかり、それ以来会社もコミュニティーも、そういった人間関係に注力するようになりました。ずっと昔、村でみんなで助け合っていた時代から学びたいですね」

それぞれ、過去に失ったものや苦い経験もある中で培ったものが、現在の勢いのある活動の原動力になっていることを感じます。年代も個性も違う4人ですが、人と人のつながり、地域の大切なものを残す」という思いは共通。これからの北加伊道は、予想を超えるような動きを見せてくれるのでは?と期待が高まります。

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株式会社北加伊道


転びながらも歩き、㈱北加伊道に辿り着いた4人の物語【後編】

この記事は2021年5月26日時点(取材時)の情報に基づいて構成されています。自治体や取材先の事情により、記事の内容が現在の状況と異なる場合もございますので予めご了承ください。