明治以降、馬の一大生産地として知られ、「競走馬のふるさと」とも呼ばれる北海道の日高地方。数多くある競走馬の牧場のひとつが、新ひだか町三石にある「レースホース牧場」です。日高山脈のすそ野にある同牧場は、開設から70年以上の歴史を誇ります。時代の流れとともに競走馬を取り巻く環境も随分と変わり、同牧場も2018年から緩やかな再スタートを切ったと言います。今回は、レースホース牧場の敷地・施設の活用、運営管理、事業オペレーションを行っている東京の株式会社レースホース倶楽部の取締役を務める田中裕人さん、そして日高で競走馬の生産を行っているレースホース牧場株式会社の代表取締役・高萩和也さんにこれまでのことや未来を見据えた構想などについて教えてもらいました。また、道外から移住して牧場の仕事に従事している2人の従業員にもお話を伺いました。
祖父が開設した競走馬の生産牧場。日高の豊かな自然や里山を守る役割もある
木々の葉が色づき始める、レースホース牧場。秋の澄んだ空気の中で放牧が始まりました
建物を建て、その運営を軸に、さまざまな分野での「場づくり」を通して、社会事業、文化事業に取り組んでいる「ソシオミュゼ」。それを構成しているのが、東京の大田区西蒲田に本社を構える醍醐ビル、醍醐建設、ソシオミュゼ・デザイン、レースホース倶楽部という4つの会社と、北海道の新ひだか町にあるレースホース牧場になります。
「不動産業と建設業を基軸に、場を作って運営しています。具体的には、食材の魅力と料理の技術をお伝えするイタリアンレストランの運営だったり、クリエイターたちが集まるアトリエビルの運営だったり。あとは、アートプロジェクトやまちづくりのプロジェクトなどにも取り組んでいます」と話すのは、ソシオミュゼ・デザイン株式会社代表取締役でもあり、株式会社レースホース倶楽部・レースホース牧場の取締役も務める田中裕人さんです。
「レースホース牧場も、ただの生産馬の牧場ではなく、そこにしかない豊かな自然や、そこで営まれる農業を通じ、場づくりが行えればと考えています。牧場運営を通して、里山を守っていくという役割も自分たちにはあると思っています」
こちらが、株式会社レースホース倶楽部の取締役を務める田中裕人さん。今回は、オンラインでレースホース牧場を運営することへの想いを伺いました
ここで気になるのは、東京の下町でまちづくりなどを手がけている会社が、なぜ遠く離れた北海道で生産馬の牧場経営を行っているのかという点です。牧場の成り立ちを含め、経緯を伺うと、「僕の母方の祖父・醍醐幸右衛門が作った牧場なんです」と田中さん。
「祖父はダイゴホマレという馬の馬主だったのですが、この馬が1958年の日本ダービーで優勝したのを機に馬に夢中になったようで、ダイゴホマレの余生のことも考え、日高の牧場を買い取ったんです」
そこを1961年に大日本競走馬生産(のちにレースホース牧場に移行)として開設。当時、田中さんの祖父が経営していたビルの警備担当だった男性に牧場運営を任せ、馬主兼生産者のオーナーブリーダーの牧場として運営を続けてきました。
「でも、基本的に生産した馬を売らないわけですし、競馬事業だけで牧場をやっていくには無理があり、晩年の祖父はミニマムな状態で牧場運営を行っていました。そして、10年前に祖父が亡くなった際、牧場を売却する話もありましたが、この牧場の素晴らしい自然環境を手放すのはもったいないとなり、僕が手がけている事業のひとつとして運営できないかと声が掛かりました」
そのとき、田中さんは請ける条件として、「経営を続けていくために、安定低空飛行できるなら引き継いでもいい。そのかわり、オーナーブリーダーではなく、マーケットブリーダーに切り替えたい」と提案したそう。マーケットブリーダーとは、生産した競走馬を競り市などの市場で売る生産者のことを言います。
この牧場を通じて、自然や農業と共にあるこの先の暮らしを示す場づくりを
「スポーツとしての競馬は好きでしたが、僕自身はギャンブルに興味がないんです。だから、ギャンブル的に儲けるとかは考えていなくて、それよりもこの日高の素晴らしい環境で農業を続けていくことが、これからの時代には大事なんじゃないかと思ったんですね。今後の暮らし方や人としての在り方の鍵になるのは、自然と人間が共存する農村、里山なのではないかと考えていて、地域の里山の風景を守る環境保全も含め、祖父が残したここで場づくりを行えたらと思ったんです」
田中さんは、レースホース牧場の運営目的を「地場産業である競走馬生産を通じて、社会文化的、環境的、経済的要因の幸せな統合としての日高地方の風景を次の時代に手渡すこと」と定義。日高の風景を守っていくためには牧場の経営の安定と、環境維持のための付近の山林や河川の整備が重要と話します。

日高山脈の山すそにある牧場は、三方を山に囲まれ、敷地内には川も流れ、四季折々の美しさに出合うことができます。また、夜になると静けさの中、満天の星空が広がるそうです。
「行政との調整やインフラ整備など、やらなければならないことは山積み。なかなか追いついていないのが実情ではありますが、競走馬生産事業と場づくり、この2つの両輪で次世代に繋いでいけるように考えています」
頻繁に日高に足を運び、現地スタッフともたくさん話をしているという田中さん。実際に競走馬生産に携わるようになって初めて気づいたことがあるそう。
「競走馬の生産というのは、一般的な農業とも他の畜産業とも違っているんです。普段は牧草を育てたり、馬の世話をしたり、土着的ないわゆる農作業を行っているのですが、その一方で市場はグローバル。ステークホルダーの多くは世界中にいるんです。さらに、競走馬というのは生き物だけど、金融商品でもあるんです。だからこそ市場がグローバルなんでしょうけど、この両極端なものを抱えているのが競走馬生産なんですよね」
オーナーブリーダーからマーケットブリーダーに切り替え、これからは生産技術の探求ももっと必要になる上に、ステークホルダーとの関係をいかに構築していくかも重要になってくると考えています。
「現地のスタッフにも競馬事業と場づくりの両輪で進めていきたいという話はよくします。僕が引き継ぐことになり、マーケットブリーダーに切り替えたときは戸惑いもあったと思いますが、牧場を任せている高萩も僕と同じ3代目。お互い10代のときから知っていますし、変わっていかなければという意識で取り組んでくれています」
築60年以上になる本厩舎は長さが70メートル以上にもなる長大な2階建て厩舎で、構造的にも珍しい建築だといいます。2023年には登録有形文化財に指定されました。

田中さんは、「こうした貴重なものもきちんと守っていき、地域の人をはじめ、さまざまな人たちと関わりを持ちながら、場を築いていきたいと思います」と最後に語ってくれました。
愛情を持って馬に接し、より良い牧場づくりのためにいろいろなことに挑戦中
さて、次に田中さんの話にも出てきた、レースホース牧場の3代目となる代表取締役・高萩和也さんに話を伺います。
「東京で警備の仕事をしていた祖父が、醍醐(幸右衛門)会長に牧場をやってもらえないかと声をかけられたのは60歳を過ぎてからと聞いています。うちの父も東京生まれで、当時、東京の食品会社で働いていましたが、醍醐会長から牧場を頼むぞと言われて25歳のときにこっちへ移って、牧場長になったと聞いています。父は日大アメフト部出身で日本一にもなったことがあり、体力にも自信があったんでしょうし、そこも見込まれたのかもしれませんね」
こちらが、レースホース牧場の3代目代表取締役・高萩和也さん
当時はこの辺りでも多かったオーナーブリーダーとして牧場を運営。時代の流れとともに周りの牧場が廃業し、畑作やほかの畜産業に転換するようになっても、醍醐会長はオーナーブリーダーとして牧場を続けていたそう。
「会長には並々ならぬ馬への思いがあったと思います」と高萩さん。醍醐会長は高萩さんが小学生になる頃までは頻繁に牧場を訪れていたそうで、「よくうちの父に息子に跡を継がせろよと言っていました」と笑います。
日高生まれの高萩さんは、そばにいつも馬がいる環境で育ち、小学生のころから自然と馬の世話をしていたそう。子どものころは従業員も5人ほどいて、賑やかな感じだったと振り返ります。
それぞれの馬の体重や状態を常に共有
「牧場を継がなきゃならないのかなと思いつつ、テニスのインストラクターになりたくて、高校を卒業したあと札幌の専門学校へ進みました。でも、何となく牧場のことが気になって、やっぱり跡を継ごうと考え、競馬業界トップクラスの実績や規模を誇る牧場であるノーザンファームに2年間研修生として勤務し、そのあと、田中常雅社長(田中裕人さんの父)に牧場を継ぐなら、経営についても学んだほうがいいと言われ、東京に呼ばれて2年ほど醍醐ビルに勤務しました」
日高に戻った当初はまだ従業員もいたそうですが、経済の悪化などに伴いどんどん経営は縮小、しばらくすると両親と高萩さんの3人で細々と牧場を続けていたと言います。
「会長が亡くなり、裕人さんが立て直しも兼ねて再スタートしようと動いてくれて、マーケットブリーダーに変わりました。裕人さんのビジョンも聞かせてもらい、今はより良い馬を生産し、より良い牧場づくりに向けて頑張っているところです。場づくりに関しては裕人さんが主導で行っているので、自分は強い馬、勝てる馬を育てていくためできることに取り組んでいます」
強い馬を育てるためには牧草から。良い牧草を育てる為には良い土づくりから。根気のいる取り組みです。
発展途上の真っ最中と話す高萩さんは、放牧地の改良や飼料の見直しに取り組みながら、今は18頭いる馬の世話を両親のほか、2人のスタッフと一緒に行っています。
「馬は敏感で繊細な生き物。馬たちには愛情をもって、優しく話しかけ、素直な気持ちで接するようにしています。ここで生まれた馬たちが、いい馬主やいい調教師に出会って、グレードレースを走ってくれるようになったらうれしいですね」
普段、馬の世話をしている中で面白さを感じる瞬間を尋ねると、「仔馬が生まれて、半年くらいで離乳したあとに意思疎通できたときは面白いって思うし、やっぱりうれしいですね」と目を細めます。
最後に高萩さんは、「裕人さんは地域を活性化していきたいというビジョンを持っています。ここで暮らす自分としても、一緒に地元を盛り上げるため、力になれたらと思います」と話してくれました。
競馬ファンから牧場スタッフに。好きな馬と触れ合える仕事に出合えて良かった
次に高萩さんと共に牧場で仕事に取り組む2人のスタッフに話を伺います。高萩さんは2人に関して、「それぞれの得意を生かしながら、より良い牧場づくりに力を貸してくれたらと思います」と話します。
まずは、この秋で入社4年目を迎える石田隼史(はやみ)さん。神奈川県出身で、中学時代、競馬のテレビゲームをきっかけに競馬が好きになったそう。
こちらが、レースホース牧場に入社して4年目の石田隼史(はやみ)さん
「2019年の夏に、ばんえい競馬を見たくて北海道へ旅行に来ました。そのとき、涼しくていいな、北海道で暮らしたいなと思い、本気で移住を検討するようになりました」
川崎の鉄工メーカーに勤務していた石田さんは、役職にも就いていたため、すぐに会社を辞めることもできず、2021年の夏に北海道へ。
「次に仕事をするなら、好きな馬にまつわる仕事がいいなと考えていたので、北海道へ移る前に乗馬クラブで馬の手入れなどの経験はしていました。ここには、ネットの求人サイトで人を募集しているのを見て応募しました。オーナーブリーダーからマーケットブリーダーに変わり、第2のスタートを切るタイミングだったというのも面白そうだなと思ったんです。あとは、施設自体が古く、修繕が必要な箇所も多そうだったので、モノづくりを長年やってきた自分の経験を活かせるかもと思ったというのもありますね」
大きな生産牧場の場合、完全分業制が当たり前となっているそうですが、レースホース牧場のような少人数の牧場ではあらゆる作業に関わります。決められたことだけをやるのではなく、「自分も血統を見て馬を交配させるための配合を一緒に考えさせてもらえるなど、そういうのが面白いですね」と話します。
石田さんは、「馬の世界は奥が深く、まだまだ身につけなければならないことはたくさんあります。より良い牧場づくりのため、やらなければならないこともいろいろありますし...」と話しながら、「でも、毎日試行錯誤しながらですが、好きな馬と接することができるこの仕事に出合えたのは良かったなと感じています」と語ってくれました。
異業種からの転職でも、得意を生かしてより良い牧場づくりに貢献
次に話を伺ったのは、この秋に入社したばかりの海老沼さん。東京出身で、カスタマーエンジニアやプログラマーとして関東で働いていましたが、コロナ禍に「Go To トラベル」キャンペーンを活用して、約1カ月北海道へ。
こちらが、今年(2025年)の秋に入社された海老沼さん。インタビュー場所の素敵なログハウスには、海老沼さんも暮らす、社員用のお部屋もあります
「マイカーで北海道に来て、道内各地を転々としながら、テレワークをしていたんです。旅行から戻って、東京にいるメリットが感じられなくなり、北海道へ移住を考えるようになりました。当初は、テレワークができるならエンジニア系の仕事もありかなと思ったんですけど、せっかく北海道へ移住するなら、次は全然違う1次産業の仕事に挑戦してみたいと思いました」
北海道を転々としていた際に立ち寄った新冠町の優駿記念館を見学し、競走馬に興味を持った海老沼さんは、1次産業の中でも競走馬の生産牧場がいいかもと感じたそう。そして、転職サイトのエージェントから候補を上げてもらった中にあったのが、レースホース牧場でした。
「大手の牧場もあったのですが、大手は仕事内容が固定されてしまうと聞いていたので、それだと飽きてしまいそうと思ったんです。自分の意見にも耳を傾けてくれるような規模のところがいいなと思って、レースホース牧場に決めました」
入社して1カ月は体力的にキツイところもあったそうですが、すぐに慣れたと話します。
「最初は馬の見分けも付かなかったんですが、今は馬たちがみんなかわいくて。でも、仔馬がバタバタしているときに高萩さんや石田さんのように上手に誘導できないので、そのへんはまだまだ経験が必要だなと感じています」
さらに、今後はより良い牧場づくりのため、自分ができることはどんどん旗振りをしながら進めたいとも話します。
「アナログな部分もあるので、システムを整備して効率化していけば、みんなにとってもいいのかなと感じています。あとは、SNSなどの活用もしていく必要があると思っていて、自分ができる部分は進めていければと思っています」
高萩さんが「それぞれの得意なところを生かしてもらえたら」と話していた通り、石田さんも海老沼さんも自分たちができることを積極的に取り組もうという姿勢であることが分かります。
田中さんは、牧場の改革も場づくりも着手しなければならないことがたくさんあると話していましたが、少しずつであれ、現場スタッフと共に築いていく牧場の未来に大きな期待が膨らむインタビューでした。















