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砂川市

「人に教える」指導員の奥深さ。砂川自動車学校20251219

「人に教える」指導員の奥深さ。砂川自動車学校

北海道で生活する上で、クルマは生活に不可欠な存在です。多くの方が10代や20代で「がちがちに緊張しながら初めてハンドルを握った」経験をお持ちかもしれません。 今回は空知エリアの砂川市にある砂川自動車学校を訪ねました。お話を伺ったのは、校長の湯浅直樹さん、教習指導員の田中将気さん、そして山本真夢さんです。元モーグル選手、元営業職、教師志望者と、全く異なるキャリアを歩んできた3人が指導員という仕事を選んだのは、自らの「心の赴く方へ」進むという共通の選択でした。人生で一度きりともいえる免許取得に伴走し、安全運転を支える3人がこの仕事を選んだ理由、そして働き方の真髄に迫ります。

憧れの先生を目指して掴んだ、就活中の「直電」

砂川市出身で現在22歳の山本真夢さん。仕事選びのきっかけは中学時代の恩師との出会いにあります。国語を担当していたその先生は、山本さんが「自分を導いてくれた」と感じる、強烈な影響力を持つ存在でした。卒業時に別れに大泣きしたほど、一人の教師との出会いと、「『教える』という仕事は相手の人生に、本当に大きな影響を与えるんだ」という言葉が山本さんの心に深く刻まれました。

carschool_23.jpg こちらが、教習指導員の山本真夢さん

その経験から山本さんはその後の部活やアルバイトを通じても「人に教える」役割に関心を寄せ続けるようになります。 高校卒業後は憧れだった恩師のような教師になることも視野に入れ、滝川市の短期大学に進学。運転免許を取得するために砂川自動車学校に通い始めます。 そこで指導員として山本さんを担当したのが、田中将気さんでした。田中さんと接するうちに、山本さんは「こういう『教える』仕事があるのか、いい仕事だ」と、教習指導員という働き方に強く心を寄せるようになりました。 やがて就職活動の時期に入ると、「指導員になりたい」という気持ちは確信に変わります。「求人があるかもわからなかったけど、どうしても指導員になりたかったんです」と話す山本さん。山本さんは熱意に突き動かされ、自ら飛び込みで砂川自動車学校へ直接電話をしました。その行動力が実を結び、見習いの契約社員として入社が決まります。研修を重ねながら業務に携わり、教習指導員の受験資格である21歳に達したタイミングで試験に合格。晴れて正社員となりました。

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「24時間限り」の投稿が運命の出合いに

山本さんの指導員時代の先輩でもある田中将気さんもまた砂川市出身です。高校卒業後に江別市の大学へ進学し、卒業後は営業職を志して函館市のオフィス用品企業に就職しました。しかし、残念ながら希望していた業務内容ではなく、会社の方針変更もあり、先々希望する仕事ができる見通しが立たなくなってしまい、1年近く働いたのちに退職を決意します。地元の砂川市へ戻り、次の就職先を考えていた時のことです。偶然、友人のSNSが田中さんの目に留まります。

carschool_64.jpgこちらが、教習指導員7年目の田中将気さん

「友人の家族が砂川自動車学校で働いていて、『教習指導員を募集しているよ』と投稿しているのを偶然見たんです」

それは通常投稿ではなく24時間で消えてしまう種類の投稿でした。「つまり、あの24時間以内に出会わなかったら、私はここにはいなかったかもしれません」と田中さんは語ります。 教習指導員見習いとして契約社員で入社後、その年のうちに資格審査に合格し、正社員へ。勤続7年目となった現在は、営業課営業主任に昇進しています。田中さんは、たった24時間の偶然の出合いからキャリアをスタートさせ、この7年間、指導員として業務を続けています。 山本さんと田中さんのお二人に、教習指導員という仕事の醍醐味を尋ねると、千差万別といえる人々の免許取得を支える面白さが返ってきました。

「考え方も学び方も本当に人それぞれ。個々人に伴走して免許取得を目指すことに、やりがいを感じるんです」
その役割について、山本さんは「車の運転免許を取りに来ることは、多くの人にとって人生一度きりの経験です」と強調します。「免許取得時にどこかで妥協するような教習時間を過ごさせてしまって事故につながったら大変なこと。免許取得後に安全に運転してもらうことをめざして取り組んでいます」と田中さんは命を預かる仕事の重みを語ります。 また、教習生の成長の瞬間に大きな喜びを感じると言います。

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「S字クランクに何回やっても失敗していた人が、ついにできるようになる。向き合ってまじめにやってくれたんだ、とうれしくて泣きそうになることもあります。それが、指導員として最高の瞬間ですね」

自動車学校には年齢、国籍もばらばらで様々な背景を持つ人々が集まります。どのように伝えれば分かりやすいか、そして、免許取得後の安全運転に確実につながるように。その人に合わせて「教える」という業務に、二人はやりがいを感じています。

モーグル選手が次に選んだ「教える」仕事

次にお話を聞いたのは、校長の湯浅直樹さんです。砂川市と同じ空知エリアの美唄市出身の湯浅さんは、進学した短大でスキー部部長を務め、模範滑走を行う専門家であるデモンストレーターになることが夢でした。海外での活動も視野に入れ、英文科を選んだほどです。 短大卒業後、ニセコヒラフで開催されたモーグルのアマチュア大会で準優勝を果たします。その後、トッププレイヤーが切磋琢磨する環境に身を投じ、フリースタイルスキーモーグル選手としての活動を本格化させました。夏は滝川市の石材会社でアルバイト、冬はニセコヒラフで住み込みのアルバイトをするアスリート生活を継続。インストラクターやチームコーチ、スキーモデルなども務めるスキーヤーでした。私生活では27歳で結婚。キャリアチェンジのきっかけは、30代になる頃、妻が第二子となる長男を妊娠していた時期でした。

carschool_40.jpgこちらが、砂川自動車学校長の湯浅直樹さん。手に持っている雑誌の中で、空高く舞っているスキーヤーが湯浅さんです。北海道内のスキー場でもポスターとして採用されているんだとか!

「家族が増えて、スキーを続けながら暮らすのは厳しくなると考えました。12月から3月まで4カ月、家を空けて単身でニセコヒラフに行く生活を10年続けていましたから。家族にガマンを強いる暮らしは変えないといけない。スキーから離れる決断をしました」

砂川自動車学校との出会いは、湯浅さんが32歳の頃のことでした。スキーから離れキャリアチェンジをすることを決めていた湯浅さんは、「親から大型免許を取っておいたらどうかと勧められたんです。免許を取得すれば、バスやタクシー、トラックの運転手など、仕事の選択肢も広がると思いました」と言います。 砂川自動車学校に通い始めると、ちょうど冬の繁忙期。当時は先代の社長も現場の教習指導に携わっており、指導時に偶然出会ったのだそうです。

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「『地元で新しく仕事を探すつもりです』と先代社長と身の上話をする仲になり、話していると『送迎アルバイトをしないか?』と声をかけられたんです」

繁忙期の約2か月間、アルバイトとして携わっていると、今度は当時の校長から「ここで指導員の仕事をしないか?」と誘われたといいます。湯浅さんは家族と相談し、打診を受けることを決めます。

「元々、乗り物が好きで、人に教える仕事が好きでした。スキーとバイクは感覚が似ているし、コーチやインストラクターとして人に教える経験も指導員に似ていました」

アスリート時代の経験が活かせる指導員という仕事。湯浅さんの心が、動いた瞬間でした。

1999年12月25日。よどみなく答える転換点

長年モーグルに没頭したものの、家族を想ってキャリアチェンジを決断した湯浅さん。転身に迷いはなかったのでしょうか。この質問に対し、湯浅さんは「実は」と口を開き、転換点となった日付をよどみなく答えました。

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「1999年12月25日のことです。現役でスキーをしていた当時、車で交通事故に遭いました。対向車が雪道の峠で車線を飛び出し突っ込んできたんです」

半身の肋骨が複数折れる全治3か月の重傷で、ワンシーズンのブランクができてしまいました。 「選手としての自分にとって、この事故は大きなものでした」 と当時を振り返る湯浅さん。さらにその後、モーグル競技のルールが変わり、それまで禁止されていた縦回転が許可され、競技の質が大きく変化。新ルールにより次世代の若手が台頭してきます。事故とルールの変更。自分ではあらがうことができない変化を前に、湯浅さんは「選手としての未練はない」と自ら現役を退くことを決めました。 選手生活に終止符を打った湯浅さんは、新しい仕事に没頭します。砂川自動車学校で3か月弱という非常に短い期間で指導員資格を取得。その後も「全ての資格を取りたい。やるなら上を目指したい」と、技能検定員の資格を取得し、全国学科競技大会に北海道代表として出場するなど、努力を重ねました。湯浅さんのアスリートとして培った気質は、間違いなく現在の仕事でも活かされています。 湯浅さんは、こんな言葉を伝えてくれました。

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「『あたり前』だと思っていたものが、ずっと続くとは限りません。だからこそ、目の前のことをコツコツ積み重ねていくこと。そう志しています」

予測不能なことは、いつ何時、私たちの前に降りかかってくるか分かりません。湯浅さんの言うように、今日の「あたり前」が明日も続くとは限りません。では、私たちはどう進むとよいのか? 湯浅さんの生き方は、その時々の「心の赴く方」へ勇気をもって歩みを進め、進んだ道で努力し続けることでした。 この「心の赴く方へ」自ら踏み出した点は、今回お話を伺った3人に共通しています。指導員の仕事がしたいと人材募集しているかもわからないなか直接電話をした山本さん。24時間限りのSNS投稿を見て行動した田中さん。偶然の出合いを必然に変えたその姿は、自分の心に素直に行動することの大切さが伝わってきます。

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「免許取得後」の安全まで担う、指導員の役割

砂川自動車学校の教習は、1コマごとに担当者が変わる「配車制」ではなく、一人の指導員が免許取得まで伴走する「担当制」を採っています。この担当制の良さについて、湯浅校長はこう教えてくれました。

「お子さんの免許取得の際に、『上の子どもたちが私に教えてもらってとてもよかったから、末っ子も先生にお願いしたい』と、指名していただくことがありました。校長になって担当にはなれなくなってしまいましたが、指名していただくというのは指導員冥利に尽きることです。他の指導員も同じ気持ちだと思います」

湯浅さんは、担当制が教習生と指導員の双方に良い影響をもたらすものだと考えています。 指導員としての役割について、山本さんは「合格、免許取得が目標ではなく、免許取得後に安全運転ができるか、交通事故が起きない状況をつくれるか。それが自分たちの役割です」と話します。

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田中さんはさらに、「生まれ育った砂川が事故のない町であること。地元への恩返しのような気持ちもあります」と地元への想いを重ねます。そして、指導員の使命をこう語りました。

「命の責任を感じているので、教習生に信頼してもらわないといけません。免許取得後もいかに安全運転を続けてもらうか、教習期間にいかにその大切さを届けることができるかが、私たち指導員に求められる役割だと思います」

砂川自動車学校の職員同士で共有されている言葉は、「笑顔で 明るく 規律正しく」。 この言葉は、まさに取材を通して感じられた3人の姿勢そのものでした。第一印象から、お三方とも身だしなみや佇まいが美しく、接遇を大切にしていることがよく伝わります。指導する立場として、常に自分を律している様子が印象的です。この姿勢の理由について、湯浅校長は、「車内で教習生の隣に座る仕事ですから、少しでも相手にとって居心地がよい空間をつくりたいと考えています」と語ります。運転免許取得という、教習生にとって緊張感の高いハンドルを握る空間だからこそ、指導員が心を配ることで安心して学べる環境を提供しているのでしょう。 安全という使命に誠実に取り組む3人の姿は、免許取得後も末永く安全運転につながるよう、指導員という仕事が持つ深い影響力を改めて教えてくれました。朗らかな笑顔で背筋をピンと伸ばし、お話を伺った3人の姿は自分のキャリアや生き方を考えるきっかけを与えてくれるものでした。

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株式会社砂川自動車学校
株式会社砂川自動車学校
住所

北海道砂川市東5条北8丁目1番1号

電話

0125-52-2266

URL

https://www.sunagawa-ds.jp/

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「人に教える」指導員の奥深さ。砂川自動車学校

この記事は2025年11月20日時点(取材時)の情報に基づいて構成されています。自治体や取材先の事情により、記事の内容が現在の状況と異なる場合もございますので予めご了承ください。