ヒーローのイトウを守る。使命感で四半世紀
静まり返った原生林が周囲に広がり、北欧のフィヨルドのような複雑な入り江が迫る。陸地には丈の短い草に交じって、風化した切り株が点在。湖面からは所々、立ち枯れた幹が神秘的に顔を出す。ボートの下をのぞきこめば、1mを超える魚影が悠々と佇む―。
そんな日本離れした絶景が広がるのは、道北の幌加内町にある国内最大の人造湖・朱鞠内湖。どこまでも広がる空と美しい水面は、訪れた人を開放感で満たします。安易に足を踏み入れられないような秘境感も、ここならではです。
この湖の今をつくってきた1人が、NPO法人「シュマリナイ湖ワールドセンター」理事長の中野信之さんです。世界中の釣り人の心を離さない名物ガイドでもあり、幻の魚・イトウの保全と活用を両立させ、多くの仕事を生み出してきた経営者です。
イトウは日本最大の淡水魚で、絶滅の恐れがあるとされています。国内では北海道の一部にのみ生息し、その希少性から「幻の魚」と呼ばれることも。環境変化に敏感で、各地で保護の取り組みがある一方、釣り愛好家からの人気は高く、憧れの的です。そして、イトウ釣りの聖地とも言える朱鞠内湖では、日本で唯一、イトウを漁業権で保護しています。
「イトウがいなければ、ここに移住していません。その『スーパーヒーロー』をなんとかしたいという使命感でやってきました」と語る中野さん。イトウと湖、そして働く場と地域を守ってきた四半世紀のストーリーをお伝えします。
イトウに惚れた釣り好き少年、旅で変わる
大阪生まれの中野さんは、幼いころから「釣りバカ」。関西で釣り場をめぐっていましたが、いつも脳裏にあったのは、図鑑の最初のページで見たイトウでした。
「関西ではアマゴが好きでしたが、迫力には欠けます。『日本の魚はダセえなぁ』と思っていましたが、イトウという『最強の怪物』に一目ぼれしました。『日本の魚も負けてないじゃん』『いつか釣ってみたい』と憧れました」
高校時代のバイク旅がきっかけで、北海道にハマりました。同級生の松尾静直さんと道内のユースホステルやライダーハウス、キャンプ場に投宿し、即席の濃い人間関係を楽しみました。それまでの中野さんは、アルバイトを多くこなして物欲を満たしていましたが、旅で生まれる出会いに価値を感じるように。松尾さんとも「いつか一緒にペンションできたらいいな」と話すほどでした。
朱鞠内では初めてイトウと対面。農家のおじいさんが「おっきいのが手に入ったぞ」と活け造りの刺身を振舞ってくれ、「希少魚」とのギャップに衝撃を受けました。
「1を2にするのは苦手、0を1にするのが好き」と話す中野信之さん。
高校卒業後に父が経営する電気工事会社で働きましたが、自分でレールを作りたいタイプの中野さんは「4年間自由にさせてくれ」と親に交渉。後に一緒に仕事をすることになる松尾さんと、「忘れられなかった」北海道へ渡りました。
中野さんは恵庭市を拠点にログハウスの大工仕事をしたり、ニセコのペンションで働いたりしましたが、コンビニが近いなど便利な生活だったため「この人生観じゃない。もっと田舎で暮らしたい」と思いを募らせます。
23歳になった1997年、再び朱鞠内へ。冬にワカサギ釣りのアルバイトを経験し、大自然の中でゆっくりした時間を過ごし、仕事と遊びの境界の曖昧さを謳歌する人たちのスタイルに、「こんな仕事もあるんだ」と、またもや衝撃を受けました。
当時はあまり釣れなかったイトウも、凍った氷に穴を開けてキャッチ。その美しさと迫力に見入りました。奥さまやお子さんと生活する上で、定職を探していた中野さんは、夏の釣り場管理をすることを漁協に打診。「イトウが好きなら、ここで守ってみないか」と当時の組合長に言われ、初の漁協職員として迎えられました。
魚へんに鬼と書いてイトウと読みます。最大2mを超え、熊を飲み込んだという伝説も頷けますね。
当時は「無法地帯」。ルール徹底で改革に汗
湖の近くに5,000円で一軒家を譲り受け、漁協職員の仕事の傍ら、夜間はトラクターに乗って農家の仕事を手伝いました。風呂やトイレを作るための資材をかき集め、大工仕事の経験を生かして、少しずつ住まいを整えていきました。
漁協職員になった1年目は、イトウ目当ての夏場の釣り客への管理はなおざりでした。禁漁期間や遊漁料は設定されていても守る人はほぼ皆無。釣り客が好き勝手に振る舞う、まさに「無法地帯」でした。密漁や乱獲がまかり通っていたため、中野さんは遊漁料を直接徴収して回り、「キャッチ&リリース」や、イトウへのダメージを軽くする釣り針の使用といったルールを整えていきました。朝から晩まで釣り人とコミュニケーションし、保護への理解が深まるよう、地道に湖畔や入り江を歩きました。
粗暴な釣り客に逆恨みされて裁判に持ち込まれたり、「火つけるぞ」と脅迫電話を受けたりと猛反発に遭いましたが、「イトウを守る」という初心とともに、「イトウを成長させて数を増やし、そのことで地域の経済を回したい」との使命感に突き動かされました。
活動は徐々に実を結び、漁協職員となって3年目には、冬のワカサギ釣りに加えて夏の遊漁料収入が安定するようになり、黒字化しました。その反面、エリア全体で観光の底上げを図る上では多くの課題があることも目につくようになっていました。
NPOで通年雇用を実現。効率化と多角化へ
湖畔には、1978年から地元の第三セクターが運営していた宿泊施設「レークハウスしゅまりない」があったものの、道外からやってきた個人客の受け入れがほとんどできず、観光協会が運営していたキャンプ場も利用客にとって使い勝手が悪いものでした。
公社が事実上倒産し、継承の打診を受けた中野さんはNPO法人「シュマリナイ湖ワールドセンター」を立ち上げることに。キャンプ場の管理運営もNPO法人に移し、レークハウスを夏季限定から通年営業にすることで、一年を通して雇用できる環境を築き上げました。
この節目に、高校の同級生で一旦本州に戻っていた松尾さんに「来たらいいじゃん」と声をかけました。宿泊施設のレークハウスが職場になり、かつて共に描いた「ペンション」の夢をかなえたような展開になりました。また、大学を卒業したての広島市出身の多賀三千代さんら、新しい仲間を迎え入れて、事業を拡大する足場を固めてきました。
左から、中野さん、松尾さん、多賀さん。
レークハウスやキャンプ場、宿泊型体験観光施設という町有3施設の管理に加え、NPO法人が所有する船で湖畔から離れた島へ送迎する渡船事業や、1日1組限定のプライベートガイドツアーもスタート。閑散期の対策として、スナック感覚の佃煮「サクッとワカサギ」も開発するなど、多角化を進めました。
中野さんによると、全国的に釣り愛好家の数が減る中、朱鞠内湖を訪れる人は増加。道内の釣りガイド業者も、釣果が望めることからこぞって朱鞠内に客を連れてくるといいます。
リピーター続出のプライベートガイドも、「ここならでは」感が強いコンテンツです。一般の釣り客が入れない奥地へ案内し、小鳥のさえずりや木々のざわめき以外は無音の湖上で贅沢な1日を過ごします。税別5万円という設定ながら毎年予約が難しいほどの人気ぶり。2018年は参加者のイトウの釣り上げ率は100%で、事業としても大成功だったそうです。
プライベートガイドは、ロケーションはもちろん、「人」との特別な時間を過ごせることが醍醐味です。
人気のガイド。釣りを超えた深いつながりも
プライベートガイドは2017年、「新しい職場になれば」という思いで始めました。「お客さんに釣らせる技術はもちろん、危険回避や、楽しんでもらうコミュニケーションの能力が欠かせません」と中野さんが言う通り、現在は十分な訓練を受けた経験豊富な仲間との2人体制で対応しています。
さまざまな業界の第一線で活躍する経営者らの常連客も多く、ワインや日本酒の仕入れや、レークハウス内のワイン棚と薪ストーブの制作を手伝ってもらうなど、深いつながりが長く続いています。
「私と一緒に飲むついでにガイドを、という方もいます。ここで出会ったお客さんと、釣りを超えたコミュニケーションを楽しめるのが醍醐味です。釣りガイドだけにとどまらず、キャンプ場などの資源も活用しながら、エンタメ的な要素を提供していきたいです」
取材に伺ったのは4月は雪がまだ多く残っていました。例年、解氷は5月中旬〜下旬。もうすぐ朱鞠内湖にも春がきます。
NPO法人では、通年雇用のスタッフが10人、季節限定で働くパートやアルバイトを含めると15人前後が活躍しています。ワカサギ釣りの管理やスノーモービルの運転、キャンプ場の受付やレークハウスの運営、経理、イトウの調査など、仕事は多彩です。しかも「北海道のはっきりした四季の中で、春夏秋冬で職場が変わるのが魅力」(中野さん)です。
「働く期間や任せる中身など、ある程度自由な勤務スタイルを受け入れています。交通や住居の問題で不便がある土地なので、いきなり家財道具一式をそろえて住むのはリスキー。しばらく働いてから、楽しみを見出してくれるのもアリです」と、中野さんは強調します。
職場の魅力アップで、地域の維持を目指す
2010年のNPO法人立ち上げから、中野さんのそばで働いてきた人はどう感じているのでしょうか。
大学卒業と同時に広島市から朱鞠内にやってきた多賀さんは「冬の雪や夏の雑草、虫は大変です。でもその分、余計なことで悩むことがありません。いろんなお客さんと関われる仕事ですが、なんでも楽しめる人は向いていると思います」と言います。都会では思う存分できないこともできる環境も魅力。「趣味でピアノをやるんですが、この辺は音を気にせず弾き放題です!」と笑います。
多賀三千代さん。ここでの仕事、暮らし方を本当に楽しそうにお話してくださいました。
中野さんの同級生の松尾さんは、釣りやアウトドアも趣味ではないといいますが、10年以上にわたり、朱鞠内に根を下ろしています。「なんとなく『北海道ブランド』は鼻が高いですし、過酷ですが楽しく生活できています」と言います。
松尾静直さん。高校生の頃の中野さんとの夢を叶え、北海道生活を満喫されています。
中野さんの大目標は、朱鞠内湖の周辺で、学校を維持できるくらいの地域を残すことだそうです。それを叶えるため、中心にはやはりイトウがいます。イトウを生かして「東京のZ世代にも羨ましがられるような」職場をつくり、十分な稼ぎを得て、田舎暮らしを楽しむ人を増やしたいとのこと。
イトウが遡上しやすい川に戻すため人工物を自然のものに交換するなど、イトウ保護のためにさらなるプロジェクトも進めています。一方では、湖畔で将来ウイスキーの蒸留所を建設する夢を掲げていて、士別市や美深町の醸造関係者との絆も深めています。
中野さんが23歳から四半世紀続けてきた、イトウの「保護」と「活用」。今や、体長1mを超す大物も珍しくないほどイトウは育ち、イトウが多くの仕事を育んできました。いくつもの沢と川が合流して大きな朱鞠内湖をつくっているように、多くの人の思いが合わさって、他にはない生態系が保たれています。
中野さんは「朱鞠内湖は思う存分、自由にやれる環境です。釣りでも魚でもカヌーでも自然でも、何かしら思いを持っている人と一緒に成長し、まちを盛り上げたいですね」とますます力が入っています。最近では湖がある幌加内町を挙げて、移住やワーケーションにも力が注がれています。太公望・中野さんならではの「釣果」が楽しみです。
- NPO法人シュマリナイ湖ワールドセンター
- 住所
北海道雨竜郡幌加内町字朱鞠内
- 電話
0165-38-2029
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