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赤平のまちで炭鉱遺産を守り伝える!〜シリーズ220180618

この記事は2018年6月18日に公開した情報です。

赤平のまちで炭鉱遺産を守り伝える!〜シリーズ2

炭鉱遺産への注目が集まる赤平市

北海道のほぼ真ん中、空知という地域に人口約10,000人ほどの元炭鉱まち、赤平市があります。くらしごとではこの炭鉱遺産に関わる人々の暮らし・仕事をシリーズで追っていますが、今回はその第2弾です。


前回は2018年7月にオープンする「赤平市炭鉱遺産ガイダンス施設」が今誕生しようとしている経緯と、そこに学芸員として勤務する予定の赤平市教育委員会の井上さんを紹介させていただきました。
今回は前回の記事にも少し登場した「赤平コミュニティガイドクラブ TANtan」のメンバーを紹介します。

akabira_tantan0204.jpgインタビュアーの大倉さんも実はTANtanメンバー。

「赤平コミュニティガイドクラブ TANtan」

市内外を問わず、赤平の炭鉱に関するイベントがあると現れる黄色いベストやTシャツを着たメンバーたち。年齢も性別も様々ですが、全員が生き生きとしていて楽しんでいる雰囲気が伝わってくる皆さんです。


akabira_tantan0216.JPGイベントの時は必ずお揃いスタイル!

赤平市やその近辺に在住するメンバーが中心となっていますが、基本的に参加するための制限はありません。団体の目的としては「炭鉱遺産を活用したまちづくり」ですが、それ以上に「炭鉱が好き」「赤平が好き」「まちづくりが好き」といったそれぞれの気持ちを大事にした集まりだということがTANtanの特徴です。

こうして20代から80代まで幅広い年代が「炭鉱遺産」というひとつのキーワードで自主的に集まり、楽しんで活動しているという団体は滅多にないのではないでしょうか。

akabira_tantan0215.jpg炭鉱遺産をPRするイベントに参加している大倉さん

TANtanでは主に赤平市内の炭鉱遺産のガイドを行っており、年に1度メンバー総出で作りあげる「TANtanまつり」というイベントも過去7回に渡って開催してきました。

詳しくお話する前に、このTANtanが生まれたきっかけ、活動の様子を新しくできたガイダンス施設の中で二人の代表のお話からうかがっていきましょう。

初代代表、土屋さんのお話

TANtan誕生のきっかけとなった初代の代表、土屋満(みつる)さんは昭和9年に生まれ2018年現在で84歳です。


akabira_tantan0202.jpgまだまだ元気な土屋さん。笑顔がとっても素敵です。

土屋さんは樺太(現在のサハリン)生まれ。昭和23年、14歳までを樺太で過ごし、終戦後の引き揚げで函館まで船でやって来ました。その当時生き別れの状態となっていた住友赤平炭鉱で働いていたお兄さんが、新聞記事で土屋さん一家の生存情報を見つけ迎えに来てくれたことで再会。それをきっかけに家族で赤平に引っ越したのでした。

中学校を卒業すると、高校の代わりに入学したのが二年制の「井華(せいか)学園」。どちらにあったのですか?と伺うと「う~んと...もしかしてちょうど今いるここら辺にあったんじゃなかったかなぁ」と。

akabira_tantan0219.jpgこのガイダンス施設が建っている周辺に土屋さんの母校があったのかもしれません。

井華学園は、炭鉱を経営していた会社である住友が、炭鉱マンを育てるために建てた専門学校のような所でした。普通の高校と同様の授業の他に、実際に炭鉱で働く職員さんを招いての専門的な勉強や実際に現場を見学するなど炭鉱に関わることを2年間で学びます。

その後卒業した土屋さんはそのまま住友赤平炭鉱に就職。炭鉱には坑内(地下)で働く仕事と、坑外(地上)で働く仕事がありますが、その時に採用されたのは坑外のお仕事。選炭機という石炭を選り分ける機械の担当となりました。

大変だったことも多くあった仕事でしたが、長年勤めた土屋さんは40歳で試験に合格し職員となります。

炭鉱には職種が「鉱員」と「職員」の2種類があります。その炭鉱だけに勤める「鉱員」に対して、炭鉱を経営する会社に勤めるのが「職員」。現在で言う「一般職」と「総合職」に似た制度で、職員になるためには試験に合格する必要があり、住む場所やお給料にも違いがありました。

職員になった土屋さんは施設課で機械の整備士となり、このことが後にTANtanと関わるきっかけとなっていったのでした。

2代目代表、三上さんのお話

TANtanの現在の代表、三上秀雄さん。土屋さんとは16歳ほど年が離れ、赤平市内の元炭鉱マンの中では「若手」の枠。


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生まれたのは北海道の泊村、お父さんは茅沼炭鉱という炭鉱に勤めていました。この茅沼炭鉱というのは北海道の中でも一番最初に炭鉱ができたと言われる道東の白糠とほぼ同時期に石炭が見つかった歴史ある炭鉱です。

この茅沼炭鉱が昭和39年に閉山となり、三上さん一家はちょうど住友赤平炭鉱に大きな炭鉱の象徴的施設「立坑やぐら」(巨大エレベーター施設)ができた直後に赤平市に移住しました。

akabira_tantan0205.jpg写真右側、車輪のようなものが見えるところが巨大エレベーターである立坑やぐらです。

昭和41年、三上さんも土屋さんと同様に炭鉱のための高校に入学します。それが昭和33年に設立された「住友赤平高等鉱業学校」。

三上さんの高校の頃の思い出と言えばラグビー。三上さんは若い頃はラグビーに打ち込んでいて、実際住友のラグビー部はとても強かったんだそうです。
「学校では授業でもラグビーがあったんだ。ラグビーしてから、部活でまたラグビー。毎日そんなんだったね。社会人のラグビー大会に出てて、強くて結構有名だったんだ」。

その後18歳で炭鉱マンとなった三上さんの配属は「採炭」。炭鉱の中では坑道(トンネル)を掘る人や機械を担当する人、測量をする人など作業内容ごとに仕事が分かれていて、中でも「採炭」は実際に石炭を掘る仕事です。

赤平の地下にある石炭の層は「急傾斜」と言われ、場所によっては大型の機械が入れないほど傾斜が急な場所もあり、三上さんはそんな危険な現場で石炭を掘っていました。

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その経験から三上さんは23歳の時に救護隊への任命を受けます。救護隊とは炭鉱で独自に編成している救急隊のことで、事故が起こると真っ先に救助に向かう部隊のことです。

救護隊は炭鉱に精通している必要があり、三上さんは人命救助のために厳しい訓練にも参加してきました。以来、閉山までの20年間、三上さんは救護隊であり続け、実際に何度も辛い事故の現場に向かい、その経験を語ることのできる数少ない語り部の一人となったのです。

また三上さんは26歳で試験に受かり、職員となりました。しかし次第にエネルギー政策の転換から石炭業界が徐々に下り坂となり住友赤平炭鉱も閉山へ向かっていったのでした。

炭鉱(ヤマ)の灯が消えたまち

通常、会社員の方は60歳で定年というところが多いかと思いますが、炭鉱の定年は55歳。しかし土屋さんが55歳を迎えた平成元年には住友赤平炭鉱にも既に石炭業界の陰りが見えていた頃。そのため土屋さんは定年することなく平成6年の閉山まで勤務を続け、閉山後も関連会社で残務整理を行っていました。


一方三上さんが閉山を迎えたのは43歳。炭鉱が閉山し石炭を掘らなくなった後も土屋さんや他の職員さんと一緒に1年間は残った様々な仕事を処理するために住友赤平炭鉱で勤務をしました。

住友赤平炭鉱での勤務が終わった三上さんは関連会社や建築会社などに勤めた後に市の嘱託職員となって現在に至ります。

赤平市の主要な産業だった炭鉱がまちから消え、赤平市は大きく変わっていきました。まちをきれいに整備しても、様々なイベントを催しても、最高で約6万人いた人口はどんどん減り続けていきました。

もういちどヤマに灯を

土屋さんも引退し、三上さんは市役所の嘱託職員となり、そんな炭鉱という存在が薄れていく日々が過ぎていく中でTANtanが生まれるきっかけがありました。


それが平成15年の「国際鉱山ヒストリー会議」です。

世界中から有識者や関係者が集まるこの会議が赤平市で行われる!と市を挙げての準備が始まりました。その時に声がかけられたのが土屋さんだったのです。

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「市役所から連絡があってさ、炭鉱で使ってた機械を組み立ててくれって言うんだよ。それどこにあるんだって見に行ったら、河原のやぶの中さ!あれを重機持ってって引っ張り上げてよ、自走枠工場まで運んで俺とあと何人かで組み立てたんだ」。

当時土屋さんが苦労して組みてた炭鉱内で使われていた機械類。それが展示されている施設が「自走枠工場」という場所です。ガイダンス施設がオープンした後は再び公開をはじめ、炭鉱内で使われていた特殊な大型の機械を間近に見ることができます。

また三上さんもこの「国際鉱山ヒストリー会議」の時に展示用の坑道の枠「木枠」を作るように頼まれ参加しましたが、三上さんにはもう一つ仕事がありました。

それが炭鉱遺産のガイドだったのです。

この時三上さんは多くの他の赤平市の住民と同様に「どうして今さら炭鉱なんかに注目するんだろう?」という気持ちだったそうです。

しかしそんな気持ちとは関係なく、炭鉱遺産への動きはどんどんと活性化していきます。この会議をきっかけにTANtanが結成されたのです。

そのきっかけを作った一人の女性、現在赤平市議会議員でもある植村真美について少しお話をしましょう。

Uターンしてきた元気印の女性

会った多くの方が「すごく元気な方だね!」と言う植村さんが赤平市に帰ってきたのは平成14年のこと。


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それまで植村さんは進学で赤平市を離れ名古屋で働いていたのですが、Uターンで赤平へ戻ります。実家が営む建設会社で働き始めた植村さんの目に映ったのは、植村さんが赤平を離れた頃から比べて人口が減って元気を失いつつあった故郷の姿でした。

たまたま居合わせた元炭鉱マンが「このまちには何もない」と言ったことにショックを受けた植村さんは「そんなことない!!」と初対面の男性に猛反論してしまったなんてエピソードも。

この国際鉱山ヒストリー会議をきっかけに、この動きをこのまま失ってはいけない!と植村さんはその時に関わった元炭鉱マンの方々に働きかけ、平成17年4月「赤平コミュニティガイドクラブ TANtan」が結成されたのです。

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この時のメンバーは元炭鉱関係者7名、まちづくり活動などを行っていた植村さんと市民の男性、そして炭鉱マンの妻たちによる組織「住友赤平主婦会」の代表だった女性、合わせて10名からのスタートでした。ちなみにこの団体名、TANtanの名付け親は誰だったのですか?と土屋さん、三上さんに聞くと「確か真美ちゃん(植村さん)だったよなぁ」と口をそろえていました。

こうして先輩だった土屋さんを代表に、植村さんが事務局を担う形でスタートしたTANtanですが約1年ほどで土屋さんは奥様の体調などがあり代表を引退。次に代表を担ったのは元炭鉱マンの中では最年少だった三上さんでした。

その理由を伺うと笑ってこんなエピソードを教えてくれました。
「いや、炭鉱っていうのは縦社会だからね、先輩の言うことは絶対だから。先輩たちから『お前やれ』って言われたら俺は『はい!』って言うしかないのさ」。

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結成当初のTANtanの活動はヒストリー会議の時に行ったガイドの継承でした。当時まだ会社が所有していた住友赤平炭鉱の立坑やぐらとその操車場、そして土屋さんたちが組み立てた機械が展示されている自走枠工場を要請があった際に会社に許可を貰い、不定期にガイドをしていたのでした。

次なる活動が始まったのは平成22年。健康志向が高まり各地でウォーキングイベントが増える中注目された「フットパス」を赤平でもスタート。通常フットパスとは地図やルートを見ながら自分のペースでのんびり歩くというものですが、赤平のフットパスは一味違います。

まず、赤平の歴史に深く関わる炭鉱というものを理解してもらうため、ガイドがつきます。そのガイドがまちの中を歩きながら炭鉱遺産や当時のまちの雰囲気を説明していくのですが、スタート時間にも工夫があります。開始時間を午前10時とすることによって、午前中にフットパスを終えた後、赤平市内の美味しいお昼ご飯を食べてもらい、午後から施設内の公開としたのです。このフットパスはまちを歩きながら歴史や「生」の声を聞ける機会として好評となり年々申込者が増えていきました。(※現在、ガイド付のフットパスは実施しておりません。フットパスのコースをご自身で歩いて、看板をご覧になることはできます)

また翌平成23年に始まったのが「TANtanまつり」です。このお祭りは三上さんをはじめ元炭鉱マンのメンバーが「昔みたいに立坑がライトアップされている所を見たいなぁ」と言ったことがスタートでした。
当時は本当に「自分たちが立坑をライトアップされている姿を見たい」という気持ちだけだったこのイベントも、年を追うごとにファンが増えはじめます。初年度は立坑の裏山に眠る「坑口」(坑道に繋がる入り口の穴)巡りを開催。3年目にはキャンドルアートも始まり、4年目には市制施行60周年記念事業としてステージや屋台を増やしたことでさらに来客が増えました。

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それからは美しい炭鉱遺産のライトアップとお酒や音楽が一緒に楽しめるイベントとして産業遺産ファンのみならず、写真家やアート好きからも人気を集め、赤平の市民からも市外の人からも愛されるイベントのひとつとなりました。

これからのTANtan

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「それまで炭鉱って、俺たちにとっては『仕事』だったんだよね。生活のために命をかけて働くっていう、そういう場だった。だけどこうやってTANtanの活動をしていく中で色んな人に炭鉱っていうものを見てもらえるようになって、だんだん『炭鉱って知らない人から見たらすごい物だったんだなぁ』って気付くようになったよね」と、活動を振り返ってこう話してくれた三上さん。

そんな三上さんを土屋さんは
「いやぁ、この人はね、本当にガイドがうまいと思うね。現実は色々あったんだけど、でもそういうのも含めて、歴史とかも三上さんはきっちり説明してくれるもんね」と評価をしています。

akabira_tantan0210.jpg炭鉱については詳しくない取材陣に対しても、しっかりとガイドしてくださった三上さん。

こうして元炭鉱マンが中心となって「炭鉱というもの」「赤平というまち」を気持ちを込めて説明してくれることがTANtanの強みであり魅力でした。博物館の展示のように炭鉱の説明を完璧にするだけではない、それぞれの経験者やまちの人が「自分の視点」を語ること、そのひとつひとつのストーリーが他の炭鉱、他のまち、他の人にはできない世界にひとつだけのガイドだったのです。

実際、人との繋がりを大切にする方々だからこそ、会って話をしたお客さんとの親交が生まれ、炭鉱の魅力を越えて人の魅力がリピーターに繋がり「TANtanのあの人に会いに行こう」と再び赤平に多くの方が足を運んでくれるようになりました。また、そんなメンバーに惹かれてTANtan自体のメンバーも年齢・性別を超えてどんどんと増えていっています。

長年メインでガイドを務めてきた三上さんはここ数年の変化も感じていました。
「最近は女性のお客さんがすごく増えたよね。前までは専門家とか、趣味で調べている人とかが多かったのに、カメラを抱えた女の人も普通に来てくれるようになった。」

akabira_tantan0207.jpg終始笑顔の三上さん。その人柄に惚れ込んで、三上さんに会いに来るという人の気持ちもよく分かります。

進化を続けてきたTANtanは2018年、また新しい一歩を踏み出しました。その一つが「赤平市炭鉱遺産ガイダンス施設」です。それまでは週末や三上さんの仕事の休みが取れた日に限られていたガイドですが、三上さんはガイダンス施設の臨時職員として常駐が決まりました。そして、今までは三上さんを始め元炭鉱マンの皆さんに限られていたガイドを若いメンバーにもできるようになろうと動き出しています。

akabira_tantan0208.jpgガイダンス施設は3月末に竣工、7月中旬にオープンします。

しかしこれらの動きもすべて、炭鉱遺産の保全に動き出した赤平市や今まで長く活動を続けてきたTANtanメンバーの想い、そしてTANtanを応援する多くの人の想いの賜物です。

これからの活動がさらに飛躍していくものと思われるTANtanですが、お二人は「色々あるけど、今までとそんなに変わらない」と笑います。自分たちの想いを伝えること、そして何より「自分たちがこの活動を好きだと思っていること」「自分たちが一番楽しむこと」は変わりません。

「俺たちは、ただ淡々と自分の仕事をやるだけさ。...TANtanだけに(笑)」
これからもますます赤平の炭鉱遺産を訪れる人は増えていきそうです。

akabira_tantan0213.jpg立坑をバックに記念の一枚。左端は4月から地域おこし協力隊としてガイダンス施設に勤務する大藤さん。

関連動画

赤平コミュニティガイドクラブTANtan 土屋さん・三上さん


赤平のまちで炭鉱遺産を守り伝える!〜シリーズ2

この記事は2018年4月23日時点(取材時)の情報に基づいて構成されています。自治体や取材先の事情により、記事の内容が現在の状況と異なる場合もございますので予めご了承ください。