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赤平のまちで炭鉱遺産を守り伝える!〜シリーズ120180326

この記事は2018年3月26日に公開した情報です。

赤平のまちで炭鉱遺産を守り伝える!〜シリーズ1

貴重な炭鉱遺産を持つ赤平市

「そこにあるのが普通で、とくになんとも思ってこなかったなぁ...」と赤平市民が口をそろえ、時には「手をつけられずに放置された」ともいわれ、価値をあまり知られてこなかった建物があります。それは、北海道赤平市にある旧「住友赤平炭鉱」の施設。


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この赤平市が位置する「空知」という地域は、かつては夕張を筆頭に、とても上質な石炭の採れる地域でした。石炭は明治・大正・昭和と日本の近代化を支えてきた大切なエネルギー資源。現代ではさまざまなエネルギー資源を選択することができますが、当時の日本では石炭がもっとも重要だとされていました。

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しかし次第に、為替相場の円高ドル安の進行や、人件費も安く大規模な採掘による安い海外の石炭が輸入されるようになってきたことや、石油がエネルギー資源の中心となってきたことで、日本で採られる石炭は需要がなくなっていき、ひとつ...またひとつと炭鉱は減っていきます。そうして空知地方では「坑内掘り」と呼ばれる地下坑道を掘って石炭を採る方法を行ってきた炭鉱は1995年にすべてなくなったのでした。

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炭鉱はそれぞれ企業が経営しており、その従業員の多さから空知では「企業城下町」と呼ばれるほど。

それまで国策として、時に危険な現場でも命をかけて働いてきた炭鉱が次々になくなり、そのたびに多くの人がまちを去っていきました。そうしてまちの産業と人口に大きなダメージを与え「悲しい思い出」として残った建物が放置され、ときに解体され、ときに草むらに埋もれていくのを、長くまちの人たちは見続けてきたのでした。

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赤平市もそのひとつで、たくさんの炭鉱がありましたが1994年に最後の炭鉱「住友赤平炭鉱」が閉山。その後、まちに残った人々は複雑な想いを抱きながらも、大好きな故郷のために別の道でがんばっていくことを決意します。

働く場を失った元炭鉱マンたちのためにと、赤平市が精力的に企業誘致を行ったことで、現在では多くの有名なものづくり企業を多数抱える「ものづくりのまち」として生まれ変わりました。

また、日本全国で炭鉱施設がどんどん取り壊されていく中、赤平の炭鉱施設については、そのあまりの大きさから取り壊されることなく一部がそのまま残されることになったのです。

その代表的な施設が「立坑やぐら」と呼ばれるエレベーターのような機能をもつ運搬施設です。
住友赤平立坑は、1963年に建造・供用開始され、4段のケージ(エレベーター)で炭鉱マンや石炭を積んだ炭車を地下マイナス650mの深さまで上げ下ろしし、1994年の閉山まで31年間にわたって活躍しました。

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この立坑やぐらを含む複数の施設が今、「炭鉱遺産」と呼ばれ注目を浴びるようになってきています。

さらに赤平市では、その遺産の価値をより多くの人に伝えるための施設として「ガイダンス施設」を建設すると決めました。

akabira_inoue7.jpg2018年7月にオープン予定のガイダンス施設です。

今回はそんな「炭鉱遺産」を巡る物語をシリーズで追っていきたいと思います。

調査地にとことんハマり込みたい、とやってきた元研究者

赤平市の炭鉱遺産に、市の自治体職員という立場で関わる男性がいます。それが井上博登(ひろと)さんです。

akabira_inoue5.jpgこちらが井上博登さん。

井上さんは「赤平市教育委員会社会教育課文化財保護室文化財保護係」に所属。長い名称ですが、まさしく「炭鉱遺産」を守る重要な仕事に就いています。この仕事にどうして井上さんが挑戦することになったのでしょうか。

井上さんは1978年生まれ。幼少期からずっと東京で育ってきました。大学も東京の大学で、ここで井上さんは文化人類学と出会います。文化人類学は「文化」という側面から人や社会について研究する学問で、実際に調査地に赴いてフィールドワークを行うことが特徴です。

akabira_inoue6.JPG炭鉱歴史資料館にて資料の整理作業中。

そんな文化人類学にのめり込んだ井上さんは大学院に進学し、修士課程で今では世界遺産になっている長崎の「軍艦島」について調査をします。これが井上さんと炭鉱との初めての接点だったのですが、この時は炭鉱についての調査ではなく、炭鉱の島という特殊な環境の中での生活について、元島民の方々への聞き取りを行ったのでした。

さらに研究を深めたいと井上さんは博士課程に進みます。この時、井上さんのターニングポイントとなるできごとがありました。

それは、2009年から本格始動した「産炭地研究会」という全国の社会学を中心とした大学研究者たちが炭鉱に関する研究を行うグループに参加したことです。この研究会の調査プロジェクトの一環で、北海道の赤平市を調査で訪れたのが井上さんと赤平市の最初の出会いでした。

ここで10名近くの元炭鉱マンたちから労働や生活についてのお話を聞き取ることになりますが、仲介役として彼らを紹介してくれたのが、赤平写真映像資料収集会代表の吉田勲さんでした。吉田さんから紹介いただいた元炭鉱マンの中で一番若く、炭鉱遺産のガイド活動など精力的に活動されていたのが三上秀雄さんです。三上さんは「赤平コミュニティガイドクラブTANtan(タンタン)」という2004年から炭鉱に関する活動を行っている市民グループの代表をされており、井上さんとTANtanとの出会いもこの時でした。

akabira_inoue8.jpgTANtanのみなさんのお話は次のシリーズでお話させていただきましょう。

TANtanは元炭鉱マンの方が中心となり、「悲しい思い出」となってしまいそうな炭鉱を「まちの大切な歴史のひとつ」として守り、次の世代へ伝えていくための活動をしている団体です。TANtanの方をはじめ、多くの元炭鉱マンの方から聞き取り調査を行う中で、「赤平」というまちは井上さんにとって忘れがたい場所となっていったのでした。

そんな井上さんは、博士課程を終えて札幌市にある大学に教員として赴任することになりました。就職してからも研究を続けたいという気持ちが消えることはなく、産炭地研究会への参加は続けます。しかし、日々の業務と研究の両立は楽なものではなかったようです。

そんな生活の中である日、出身大学の教授から「赤平市で専門的な人材を探している」との情報が飛び込んできます。井上さんはこう思ったそうです。
「赤平に行けば、調査地にどっぷりつかることができる。これまで調査だけでは見えなかったものが見えてくるかもしれない...。思えば人類学の研究者は調査地に長期滞在した果てにそこに居着いてしまうこともままあること、これも性なのかもしれないな...」。

こうして2015年4月、井上さんは赤平市に居を移して教育委員会で勤務を始めたのでした。

調査での滞在と「暮らすこと」のギャップ

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それまで調査で何週間も赤平市に滞在したこともあった井上さん。その経験もあって、市内に知人も多く、赤平市での暮らしは想像できていたといいます。

しかしそんな井上さんでも、やはり都会とのギャップを感じることはよくあったそうです。

「市内にはコンビニもスーパーもあって、生活には本当に困りません。ただ、痒いところに手が届かないというか...、たとえばちょっとしたときに何をするでもなくブラブラするっていう場所とかないなぁとは思いますね。あとはどこに行っても知り合いに会ってしまうのも最初は戸惑いました」。
いざ住んでみると見えてくる新たな側面もあったようです。

井上さんは言葉を続けます。

「でも環境の良さは本当に自慢できます。自然が豊かで、東京では考えられないくらい静かです。家の目の前の公園ではエゾシカやキツネが普通にいたりと、のどかな風景が広がっています。ある朝、キツツキのドラミングの音で目が覚めたときには本当に感激しました!それから炭鉱町の気質なのかわかりませんが、人と人との距離感が近いことは感じます。世話好きな人が多くて『ひとりぼっちにならないまち』だなぁって。『資金造成ビアパーティー』というイベントを支援するための飲み会も多く、たくさん誘ってもらっています」。

akabira_inoue18.jpg楽しそうに赤平市での生活を語ってくださった井上さん。

赤平市ではちょうど今、移住定住の政策にも力を入れている真っ最中。子育て支援も手厚く、移住者への補助や移住者を増やすためにアパートを建設する業者への補助も行っており、ここ数年は新築のアパートも増えています。そんな中で人と人とが助け合える環境がある赤平市は、単身赴任でやってきた井上さんにとっても住みやすい環境だったようです。

現在教育委員会の社会教育課の一員として働いている井上さんは、最初の1年目は「社会教育係」の配属でした。この係では炭鉱遺産も担当しながらも、子どもや青少年向けの事業なども担当していたそうです。さらに仕事をしながら通信制の大学と短期集中型の実習を受講して学芸員の資格も取得。

akabira_inoue10.jpg職場での一コマ。

2年目になると「文化財保護室 文化財保護係」が新設され、学芸員としての勤務が始まります。

この年2016年7月に、それまでは企業が所有していた赤平市内の炭鉱関連施設が赤平市に無償譲渡されます。それ以前も炭鉱施設の所有企業の許可を得て市民グループ「TANtan」が中心となり施設の見学を実施していたのですが、見学者が徐々に増え、問い合わせや取材なども併せて増えていき、その管理やガイドの補助を行う井上さんも忙しい日々を送っていました。

いっぽう市の方でもせっかく譲渡された炭鉱施設を有効活用し、より良く活かしてゆくためにはどうしたら良いのか検討するため、構想の策定に向けて有識者や元炭鉱マンを交えて話し合いをスタートしました。

そんな矢先、国の地方創生関連の交付金に申請していた赤平市の申請計画が採択されたのです。そして、この交付金を使って「ガイダンス施設」を建設する計画が一挙に動き出していきました。

つながってきた遺産化への動き

空知の多くの旧産炭地で、どこのまちも多くの人がそこにあることも気に留めてこなかった炭鉱遺産ですが、赤平市では最後の炭鉱が閉山してまもなく保存への動きがありました。

1987~2003年まで市長を務めた親松市長の時代には、「レプリカではなく本物の歴史を残したい」と炭鉱閉山後すぐに活用の構想が作られました。その構想では道立の博物館を誘致し、本格的に炭鉱の歴史や資料を残し、全道的な拠点センターにしていきたいというものでしたが、あまりに大がかりな計画だったため資金面での難しさなど計画は日の目を見ることはありませんでした。

ほぼ同じ時期の2001年からの4年間には、国の緊急地域雇用特別対策の制度を利用して「住友赤平炭鉱」の事務所内の膨大な資料の整理、炭鉱で使われた大型坑内機械類の整備と展示、炭鉱会社子弟が多く住んでいた地区の「住友赤平小学校」内に炭鉱歴史資料館を整備する事業などが連続的に実施されました。そして2005年には「赤平市炭鉱歴史資料館」としてオープンしたのです。(2018年3月現在は休館中)

akabira_inoue12.jpg当時、炭鉱会社の子弟が多く通っていた住友赤平小学校です。現在この施設の中にたくさんの炭鉱に関する資料が眠っています。

その間にも世間では炭鉱が「日本のエネルギーを支えた」、「北海道の近代化を支えた」大切な産業・歴史として少しずつ注目をされ始めます。2003年には、アジア初開催となる全世界的な国際会議「第6回 国際鉱山ヒストリー会議」が赤平市で開催され、世界中の専門家がこのまちを訪れたこともありました。

ますます「炭鉱遺産」の利活用に力が入っていきます。

akabira_inoue17.jpg「赤平市炭鉱歴史資料館」の中はたくさんの資料と、遊び心も溢れ、大人も子どももワクワクしてしまうようなそんな施設でした。

そんな盛り上がりを見せる中、赤平市に重大なできごとが起こります。

それが2006年の夕張市の財政破綻でした。
地方債の借り入れの問題に端を発したこの問題は、空知地方の旧産炭地6市町に大きな影響を与えましたが、赤平市もその影響を受けたまちの1つだったのです。突如として「第二の夕張」とまでいわれるほどの財政難に陥った赤平市は、一転緊縮財政に転じます。

赤平市役所でも数十名に上る早期希望退職者を募り、新規職員採用は10年近く見送られ、多くの事業が凍結を余儀なくされ、まち全体が「我慢」の時期となってしまったのです。

およそ10年にも及ぶ我慢に我慢を重ねた時期をなんとか乗り越えて、財政的にあかるい兆しが見えてきた赤平市。その緊縮財政の時代のかじ取りをした故・高尾市長も、ようやく財政危機を脱出できる見通しが立ってきたことで再び炭鉱遺産の利活用も進めていきたいと考えていたそうです。このような流れが、後に学芸員として井上さんが迎えられることにつながっていったのでした。

「ガイダンス施設」という場

紆余曲折を経て、それまで炭鉱会社が所有していた施設を赤平市が譲渡を受け「さぁこれから活用していこう!」と検討を重ねていたときに訪れた1つのチャンスが「ガイダンス施設の建設」でした。

それまでの話し合いでは大がかりな施設の建設は検討されていなかったのですが、地方創生の交付金をもらえるチャンスが巡ってきた赤平市。この機会を逃すとおそらくこうして施設を建てられることはないのでは、という状況だったそうです。

もちろん、この施設の建設にあたっては賛成の声ばかりではありませんでした。そもそも「炭鉱」が命をかけて働いた場であったということや、住友赤平炭鉱では大規模な災害は発生しなかったものの、炭鉱施設で亡くなった方もいることなどから、「早くこの建物を壊してほしい」と思っている方もまちにはいます。

また長い間緊縮財政を経験した赤平市の人々は「そんなにお金をかけてどうするんだ」「社会福祉など他に優先してお金をかけるべきものがたくさんあるんじゃないか」という声もありました。

一方で「このチャンスを逃したら、もう二度とこんな条件の良い交付金をもらえる機会はない」「炭鉱は大切な歴史だ」と思う人も多かったのです。

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社会福祉や行政サービスはまちに暮らす人々にとっては最重要なものです。その一方で観光や文化は「なくなっても生活には支障がない」とどちらかというとまちの人には重要視されないことも多い分野でもあります。
しかしこの「まちの歴史や文化を守り伝えること」「まちの魅力を発信すること」を失ってしまった時、まちの人たちはその誇りや歴史を忘れてしまい「このまちには何もない」とまちを去る人が増え、まちに来る人が減ってしまうことになります。それを止めなくてはならない、と考える人も少なからずいたのです。

akabira_inoue15.jpgかつて炭鉱事務所の正面入り口横にあった「模型専用室」に展示されていた年代物のジオラマ。炭鉱住宅や立坑も忠実に再現されています。

多くの不安の声がある中でも、最終的にはこのガイダンス施設の建設は、市議会の議決を経て建設が始まりました。

そんな様子を目の前で見てきた井上さんはこうとらえていました。

「たしかに、炭鉱遺産の価値がわからないとおっしゃる方がいるのは事実としてあります。ですが、賛否はありますが新しく建とうとしているこの施設は、いかにして市の財政的負担を軽減しながら国の財源を有効活用して、未来に向けた前向きなチャレンジをするかというギリギリの挑戦が結実した、今しかできないことだったと思います。この好機をどう活かしていくか、これまでの長い歴史の中で前の世代の方々が遺してくれたこの財産に、次の世代がどう価値を付加していくかが大切なんじゃないでしょうか。そのためにも私の仕事としては、まずはどうやって財政負担を減らしながら赤平の炭鉱遺産を残し伝えていけるかを考えるのが役目かなと思っています」。

井上さんの熱い想いは続きます。

「私は今まで文化という形のないものを研究してきました。ですから建造物の専門というわけではないのですが、改めて形のあるモノを残すことの重要性を感じています。また赤平市では、郷土館の閉鎖以降職員の常駐する本格的な博物館・資料館などの施設はなかったので、今回施設ができることでより専門的な業務にあたることができるようになるかもしれないと期待しています」。

akabira_inoue16.jpg「炭鉱の救護隊旗が残されているのは珍しいんです」と教えてくれる井上さんからはいろいろな炭鉱にまつわるお話をお聞きしました。新しくできる施設にも、もちろんこの旗を持っていくつもり、と話します。

このガイダンス施設は、それ自体が主役の博物館ではなく、立坑など隣接する本物の炭鉱遺産を引き立てるための施設だといいます。リアルな炭鉱施設を理解するための「ガイダンス」を行い、訪問者の理解や鑑賞の手助けとなり、第一歩となる入り口です。財政的な負担を不安に思うまちの人ももちろんいるのですが、井上さんはこのガイダンス施設が赤平市にとって良いものとなることで、その不安を取り除いていければと思っているようです。

akabira_inoue19.jpg施設内の完成予想図。ホールではこうして座りながらガイドのレクチャーを受けたり、赤平市の炭鉱にまつわるお話ができるスペースもできる予定です。

雪の降る中でもガイダンス施設の建設は続き、2018年7月にオープンを迎える予定です。施設では新しく着任する地域おこし協力隊も一緒に働く予定。井上さんは「赤平の炭鉱遺産をわかりやすく、魅力を伝えられる人、そして訪れる人を笑顔にできるあかるく元気な人にがんばってもらえたらと思っています」といいます。

まだ未知数の多いガイダンス施設ですが、この雪が融ける頃にはその姿も新しい仲間と一緒に見ることができそうです。これから先、この場所がどんなところになっていくのかは、そんな井上さんと新しい仲間、そして赤平市に暮らすまちのみなさんで作っていく新しい歴史になることでしょう。

akabira_inoue14.jpg新しくできるガイダンス施設を楽しみにしている炭鉱愛に溢れる井上さんでした。施設が完成した際にはぜひ、井上さんに会いに行ってみてはいかがでしょうか。

赤平市教育委員会 社会教育課 文化財保護係 井上博登さん
住所

北海道赤平市泉町4丁目1番地

電話

0125-32-1822

※住所・電話番号は赤平市役所のものです。ガイダンス施設の住所、電話番号は別です。


赤平のまちで炭鉱遺産を守り伝える!〜シリーズ1

この記事は2018年1月15日時点(取材時)の情報に基づいて構成されています。自治体や取材先の事情により、記事の内容が現在の状況と異なる場合もございますので予めご了承ください。