北海道美瑛町。色鮮やかな花々が丘を彩る「展望花畑 四季彩の丘」は、120ヘクタールもの広大な大地を管理し、花畑やスノーモービル、アルパカ牧場といった観光業とともに、小麦やじゃがいも、アスパラなどを育てる「現役の農場」としての顔を持ちます。
家業である農家を継いだ三代目の熊谷留夫(とめお)会長が、自らの代で立ち上げたこの場所。その根底にあるのは、「自分たちの作ったものを届け、この美瑛の地に多くの人に来てもらいたい」という、農家としての飽くなき挑戦心です。その想いは、四代目の寛樹社長、そして現場で働く若手従業員へと受け継がれています。
今回は、会長の留夫さんと社長の寛樹さん、アルパカ牧場を担当する相内春里(はるり)さんにインタビュー。農業という枠組みを超えたさらなる可能性と、この丘が繋ぐ「農の未来」の姿に迫ります。
時代の荒波の中で「農」を守るための決断
取材に訪れたのは雪に覆われた美瑛の冬の一日でした。なだらかで真っ白な丘の曲線がどこまでも続きます。陽光が雪の結晶の一粒一粒をダイヤモンドのように輝かせ、観光で訪れた人たちを魅了していました。
雪景色の中で株式会社四季彩の丘の会長、熊谷留夫(とめお)さんは穏やかな表情で私たちを迎えてくださいました。
「私たちがここに立っているこの場所も、かつては馬で田畑を耕していた時代があったんです」
こちらが、株式会社四季彩の丘会長の熊谷留夫(とめお)さん
留夫さんのルーツは、宮城県から新天地を求めて北海道へ入植した祖父の代まで遡ります。留夫さんはその血を受け継ぐ三代目。1971年に高校を卒業し、ごく自然な流れで家業を継ぎました。当時の農地は、親から譲り受けた5ヘクタール。現在の四季彩の丘の広大な敷地からすると、小さな出発点でした。
当時の北海道農業を取り巻く環境は、決して穏やかなものではありませんでした。米余りによる減反政策が進められ、休耕田、転作田が増えていきました。
「周りでは離農する人がどんどん増えていきました。誰かが耕していたはずの田んぼが、あっという間に休耕田になっていく。そんな光景を目の当たりにしてきました」
このままでは、農業を仕事として続けていけなくなるかもしれない。そう感じた留夫さんの脳裏に浮かんだのは、海を越えたアメリカの広大な農地の姿でした。「これからはアメリカのように圧倒的なスケールで農地を耕さなければ、農業を継続することはできないと考えました」

そこからの留夫さんの歩みは開拓精神を引き継ぐ人間らしく、果敢なものでした。離農を決めた近隣農家から農地を譲り受け、畑を広げ、土を耕し続けたのです。
現在、四季彩の丘が管理・運営する総面積は、花畑や農地、駐車場を含めて120ヘクタールという大きな規模に。受け継いだものを守りながら、時代の荒波の中で「どうすれば農業を、この美瑛を守れるか」という問いに対し、留夫さんが自らの手で土を耕し、切り拓いていきました。
「収穫物を食べてほしい」という純粋な想い。6次化への足がかり
農地を広げ、土を耕す。そのストイックな農家としての日常の傍らで、留夫さんにはもう一つの情熱を注ぐ世界がありました。 20代の頃から趣味で始めたスノーモービルです。単なる趣味の域を超え、全日本選手権で4度の優勝を飾るほどの腕前。その勝負の世界での経験が、結果として四季彩の丘の「商い」の原点となりました。
冬の農閑期になると、大会のために本州へ遠征していました。そこで宿泊先として好んで泊まっていたのは、ペンション。ホテルとは違うアットホームで落ち着く雰囲気が魅力的に映ったのです。自分の育てた農産物を、ペンションで自分たちの手によって提供できたら。そうすれば、もっと農業を身近に感じてもらえるんじゃないか。そんな夢が、留夫さんの心に芽生えました。
1992年、留夫さんは12部屋の客室を備えたペンション「ウィズユー」をオープンさせます。当時はまだ「農業の6次化」という言葉すら一般的ではなかった時代。農家が宿泊業を営むという斬新な挑戦でしたが、蓋を開けてみれば、宣伝もせずとも口コミだけで客足は途絶えませんでした。
農業がつくる美瑛の景色を楽しみながら、農園でとれる美瑛の農作物を味わってほしいという想いから始まったペンション「ウィズユー」
「自分たちが作ったじゃがいもや小麦を、その場で味わってもらえる。お客様の『おいしい』という声を直接聞けることが、何よりのやりがいでした」
しかし、ペンションの成功は、留夫さんに新たな問いを突きつけます。 12部屋の宿だけでは、食べてもらえる相手にも、伝えられる魅力にも限りがある。どうしたらもっと多くの人に、この美瑛の豊かな実りを、そして風景の美しさを知ってもらえるだろうか。その自問自答の末に辿り着いたのが、2001年の「四季彩の丘」の開園でした。「花の丘を作りたい」。その想いを口にした時、周囲からは「失敗したらどうするんだ」「近隣地域にもすでに花畑はある」と反対の声も聞こえました。
それでも留夫さんは、美瑛の土を、丘の曲線を熟知していました。

「この丘で花を咲かせたい。この場所なら、花はもっと輝き、多くの人を幸せにできるはずだと思いました」
立ち上げにあたっては、近隣の栽培技術に長けた花農家に頭を下げに行きましたが、最初は「そんな広い規模はやれる気がしない」と断られてしまいます。仕方がなく別の方法で手探りで花を育て始めましたが、広い丘一面に咲かせるのは容易ではありませんでした。
けれど、失敗しても、芽が出なくても、留夫さんはあきらめませんでした。その姿を黙って見ていた前述の花農家が、ある日留夫さんに「ハウスを建ててくれるなら、何とかやってみるよ」と声を掛けました。留夫さんの情熱がプロの花農家の心を動かし、美瑛の四季を彩る丘への第一歩が刻まれたのです。
「しっかりと維持し、前進していく」。四代目が守り抜く丘の誇り
現在、株式会社四季彩の丘の代表取締役として経営を担っているのは、留夫さんの息子である熊谷寛樹さんです。「これまでの歩みをしっかりと維持し、その上で少しずつでも前進させていきたい」と語る寛樹さんの言葉からは、この場所を大切に守り続けようとする真っ直ぐな想いが伝わってきます。その想いが試されることとなったのが、2020年から世界的に広がったコロナ禍でした。観光や飲食など大きな影響を受けた業種には様々な支援策がありましたが、四季彩の丘のような大規模な農業生産法人の場合、条件が当てはまりづらく、思うような支援が得られないという厳しい現実に直面しました。
こちらが、株式会社四季彩の丘代表取締役の熊谷寛樹さん
「もう一年、コロナ禍が長引いていたら、この場所を続けることは難しかったかもしれません」
熊谷さん親子は当時をそう振り返ります。来訪者が途絶え、静まり返った丘。けれど、一緒に働く人たちやアルパカたちは、四季彩の丘にとって欠かせない存在です。 寛樹さんたちは、従業員の雇用を維持し、来訪客が途絶えても牧場のアルパカたちを手放すことなく、大切に育て続けました。移動制限が解除される時期を見据え、これまで無料としていた四季彩の丘に、施設維持のための入場料を設ける決断をしました。この決断には、社員から「来訪者が離れてしまうのではないか」という不安の声も聞かれたといいます。
しかし、「その分、より居心地の良い場所を作っていこう」と周囲に語り、一つずつ準備を進めてきました。 実際に足を運んでくれる人たちのために、より快適で、より美瑛らしさを感じてもらえる丘へ。その実直な積み重ねは、結果として多くのファンに受け入れられることとなりました。

取材に訪れたこの日、一面の雪景色を楽しめるスノーモービルを目当てに、多くの観光客が訪れていました。現在、保有する台数は200台。10数年前の20倍近い規模で、冬の美瑛の醍醐味を伝え続けています。さらに夏期にはヘリコプターでの遊覧飛行など、新しい視点からの試みも着実に評判を呼んでいます。
「しっかりと維持して、前進していく。今後は舗装化やバリアフリーにもさらに力を入れ、誰もが歩きやすい場所にしていきたいと考えています」
寛樹さんは今、来訪者一人ひとりに寄り添う丘の未来を見据え、歩みを止めることなく進んでいます。
「失敗はなかった」。その言葉の裏にある、飽くなき試行錯誤
農場からはじまり、ペンション、そして四季彩の丘。50年以上にわたり多角化を進めてきた留夫さんですが、その道のりを振り返り、「これまでの歩みに大きな失敗はなかった」と静かに語ります。しかし、それは決してすべてが順風満帆だったという意味ではありません。
例えば、来訪者が少しでも歩きやすいようにと進めてきた、園内の舗装化。今でこそ整えられていますが、そこに至るまでにはいくつもの壁がありました。 当初、舗装の足がかりとして砂利を敷こうとしましたが、許可が下りず、そこで「それならば」と、苦心の策として木くずを敷き詰める工夫を凝らしました。ところが、真夏の暑さで木くずが発酵し、現場から煙が上がるという緊急事態に見舞われたこともありました。

どうすれば良くなるか。うまくいかないなら、別の方法を試す。その繰り返しが続きます。その後、近隣住民からの提言も大きな力となり、ようやく舗装化が実現。今の「歩きやすい丘」が完成したのです。一度の失敗で諦めるのではなく、納得できるまで方法を変えて挑み続ける。留夫さんの「失敗はない」という言葉には、そんな試行に対する懐の深さと、挑戦を許容する強さが込められています。
その想いは、単なる経営戦略を超え、一人ひとりの来訪者への眼差しにも現れています。 かつて、重度の身体障がいを持つお子さんが、親御さんと共に車椅子で訪れたことがありました。閉園間際の夕方、留夫さんは自ら車椅子が通れるルートを案内して回りました。
丘に広がる花畑を眼前にして、お子さんが懸命に手を動かし、言葉にならない感動を表現してくれた姿。

「あの時の姿は、今でも鮮明に覚えています。涙が出ました」
その記憶は、今も会長の心に深く刻まれています。試行錯誤を繰り返し、この丘をバリアフリーへと進化させようとする原動力は、こうした一人ひとりの「喜び」に寄り添いたいという切実な願いにあるのです。74歳となった今も、穏やかで凛とした佇まい。挑戦を恐れず、失敗をプロセスに変えていくその背中に、取材陣も背筋が伸びる思いがしました。
アルパカと向き合い、空の下で働く。シンプルな「好き」を仕事にする喜び
四季彩の丘を支えている若手スタッフの方にもお話を伺いました。アルパカ牧場を担当する入社4年目、現在25歳の相内春里(はるり)さんです。相内さんは4足歩行の動物が大好きで、「動物に関わる仕事がしたい」という想いから、飲食業からこの世界へ飛び込みました。
「アルパカ牧場の仕事があると聞いて、直感的に面白そうだなと思ったんです。実際に触れ合ってみると、アルパカはとても穏やかな性格で、一頭一頭に個性がある。今では、それぞれの顔と名前が一致するのはもちろん、性格の違いも手に取るように分かります」
こちらが、アルパカの飼育を担当する相内春里(はるり)さん
相内さんの仕事は、単なる飼育にとどまりません。餌の配合を工夫したり、より食べやすいように餌箱を改良したりと、日々試行錯誤の連続です。
「顔見知りになるほど通ってくださるお客様もいて、『大きくなったね』と声をかけてもらえると、自分のことのように嬉しいんです。家畜というよりは、癒しをくれる大切なパートナーだと感じてもらえるような環境づくりを心がけています」
牧場の仕事は、冬の屋外作業や伸びた毛を刈る作業など、体力が必要な場面も少なくありません。「体を動かす仕事が好きなので、苦ではないです」と笑います。むしろ、美瑛の広大な空の下で、四季の移ろいを肌で感じながら働くことに、何にも代えがたい喜びを感じているといいます。

「仕事の合間にアルパカたちと散歩する時間が大好きなんです。春になったら広い場所へ連れていき、クローバーをたくさん食べさせてあげます。動物たちにストレスのない暮らしをさせてあげることが、私のやりがいです」
働きやすさの面でも、相内さんは充実感を口にします。現在は3〜4人の体制で牧場を管理しており、休みもしっかり取れる環境。休日は年間パスを持っている旭川市の旭山動物園へ足を運ぶのが恒例だそうで、「結局、休みの日も動物と過ごしていますね」と、自身の仕事への深い愛情をのぞかせます。
「『四季彩の丘』という名の通り、ここはとにかく四季の表情が美しい。空の下で、自然の一部として働けることに、毎日喜びを感じています」

農業の可能性を信じ、夢を耕し続ける
「地球上に人間がいる以上、食料は欠かせません。農や食に関わる仕事は、自分のやり方次第でいくらでも夢を持って取り組める、本当に面白い仕事なんです」
馬で田畑を耕していた父の背中を見て育ち、米余りの時代を攻めの姿勢で突破してきた留夫さんの歩みは、農業の可能性を証明し続けてきました。その想いは、四代目の寛樹さんや、相内さんのような若手スタッフへと着実に受け継がれています。最後に、これからを担う若い世代へ伝えたいことはないか尋ねると、留夫さんは真っ直ぐな瞳でこう答えてくれました。

「努力すれば、夢はかなうと思っています。農業を志す若い人に伝えたいのは、どうかあきらめないで、努力を続けてほしいということです」
美瑛の丘に広がる、息を呑むような絶景。それは、何もない土をあきらめずに耕し続けてきた人たちの、情熱の結晶そのものでした。
取材を終えて見上げた空は、厳しくも美しい美瑛の冬を象徴するように、どこまでも高く晴れ渡っていました。
















