かつて18歳で北海道函館市を飛び出した青年は、世界を旅した末にライターとなり、家族とともに故郷に舞い戻りました。今回くらしごと編集部が気になってしまったのは、フリーランスのライターとして函館で活動する阿部光平さん。今でこそ函館を拠点にしていますが、そこに至るまでの経緯がずいぶん濃厚。函館に至って以降もだいぶ特濃。組織に属さず自分の才覚によって生きるフリーランスとして、そして3人の子どもを育てる親として、仕事とくらし、そしてまちとの関わりについて伺いました。
目立ちたがりの少年は上京し世界を目指す
改めて紐解く必要もないほど抜群の知名度を誇る、北海道屈指の観光都市・函館。レトロな街並みやイカなどの海産物、赤レンガ倉庫に五稜郭公園、名湯・湯の川温泉など、訪れたことがある人ならばお気に入りのスポットがスラスラと出てくるのでは?
今回お話を伺ったのは、ここ函館ご出身の阿部光平さん。優しい目と落ち着いた話しぶりが印象的です。まずは阿部さんの生い立ちについて聞いてみましょう。
函館出身の阿部さんですが、学校の教師をしていたお父様の仕事の関係で、幼少期は何度か引っ越しを経験してきました。幼稚園の年長の時に北海道山越郡長万部町に引っ越しをして、そのまま小学校に入学。自ら「目立ちたがり屋だった」と評する阿部少年は、5年生の時に一大目立ちイベント「児童会役員選挙」に児童会長候補として出馬し、なんと見事当選を果たしました。
しかし、おお、なんという運命のいたずら。このタイミングで函館への引っ越しが決まり、その当選は淡くもその手中からすり抜けてしまいます。
「その当時、親に文句を言っていた覚えがあります。転入した函館の小学校では児童会に前期後期という設定があったので、目立ちたいからさっそく後期に立候補しましたが、知名度が無くて落選しました」
こちらが、フリーランスのライターとして函館で活動する阿部光平さん。
高校に進学すると、それまで学校・部活・家でほぼ100%が構成されていた生活に変化が起き、まちで遊ぶ楽しさに夢中になりました。
「放課後古着屋さんに行ったり、ライブハウスに行ったり。すると友達がすごく増えて、当時同じカルチャーで育った仲間とは今も付き合いがあります。函館の繁華街といえば函館駅前か五稜郭エリアなのですが、ぼくらは学校が五稜郭に近かったので五稜郭周辺で遊ぶことが多かったです」
やがて高校卒業を迎え、自らの進路を決める時期が来ます。おぼろげに「雑誌や映像の仕事をしてみたい」と考えていた阿部さん。大好きな函館のまちに居続けることと、東京で自分がやりたいことを叶えることを天秤にかけ、上京を決意します。
日本大学に進学し、映像制作やメディアについての基礎を学びながら、長期の休みになると海外へバックパッカー旅へ出かけました。外国を回るにつれ、次第に「住んでみたい」と思うようになった阿部さんは、大学卒業後そのままワーキングホリデーを利用し1年間オーストラリアで過ごしました。
それでもまだ世界への興味はすり減ることなく、さらに1年間をかけて北米、中米、南米、アフリカ、ヨーロッパ、アジアを回る世界一周の旅が始まります。
「海外を旅してみて思ったのは、どんな場所でも生きていけるんだということです。お金のない旅行だったのもありますが、屋根があって壁があるだけでもちょっと安心できるというか。駅や公園で野宿しながら旅をしていて『最悪すべてを失ったらこれか』という体験をすることができました。こうした経験を20代のうちにできたことはリスクを恐れない気持ちを育んでくれたのかなと思います」
現在は奥さんと3人のお子様のいるお父さん。当時とは旅行に対する気持ちも変わりました。
「ぼく自身はトータルで2年近く海外で生活し、行きたい国にも行けました。当時とはライフステージも違うし興味も変わり、旅行先も『子どもと一緒に行ってみたい』が条件になってきていますね」
子どもには、なるべく日本とは違う文化に触れさせてあげたいと話す阿部さん。去年の夏は家族でフィリピン旅行へ行ったそう。アジア文化圏的に行きやすいことと、英語が通じやすいことがフィリピン行きを決めた理由なのだとか。
「長女はすごく小さい時にハワイへ行ったことがあるんですが、次女と長男は初めての海外。いきなりハードなメキシコとかモロッコとかは、子連れで行くのはなかなか大変そうだなと思ったので、行きやすさなど色々加味してフィリピンです」
3人の子どもを連れての海外旅行、大変さ以上の楽しさがありそうです!ところで大学入学以来、一向にメディア系のお話が出てきません。大丈夫でしょうか...?
十字街の交差点に位置する路面店「HOTEIYA SANDWICH STAND」を、取材場所としてお借りしました。
ライター阿部光平誕生と函館移住へ募る思い
阿部さんの世界一周旅行、最後の国は香港でした。香港の大衆食堂で食事をしていると、見知らぬ紳士が話しかけてきたそうです。
「お兄さん何してるの」ー「世界旅行しているんです」
「写真とか日記ないの」ー「ありますよ(渡す)」
「おもしろいね、うちで記事書かない?」ー「書きます!」
ライター阿部光平さん誕生の瞬間です。
なんでも偶然出会ったこの紳士は、とある航空会社の機内誌の担当者だったそうで、「旅行に行って文章作ってお金もらえるなんて最高じゃないか!」と前のめりの阿部さん、本当にこの縁でライター稼業が始まったそうです。

「もし自分がフォトグラファーだったら」「もし自分がミュージシャンだったら」
世界一周中に出会った感動を前に、阿部さんはそう考えたそうです。でもフォトグラファーではないからきれいな写真は残せないし、ミュージシャンではないから素敵な曲も作れない。
でも、文章ならこの感動を残すことができるかもしれない。そう思って旅行中ずっと文章を書いていた阿部さん。旅行の最後に、この文章がきっかけで未来が変わるとは...。まさに事実は小説よりも奇なり。
「その時見せた文章が、野宿したりピストル突き付けられたり、財布盗られたりという内容だったので、そういったネタを求めてるのかと思ってたんです。だからちょっと危険そうなところに足を踏み入れて体験レポートを書いたのですが、先方から『機内誌は、これから旅行を楽しみにいくお客さんが読むものだから、旅先がワクワクするような話題を』と諭されました。そりゃそうだよね、と思いました(笑)」
このお仕事がきっかけで別の出版社や編集プロダクションからも声がかかるようになり、日本でもライターとしての仕事が増えていきます。中でも強く印象に残るのは「パワースポット」系のお仕事。なんと1年に10冊もの執筆依頼がきたこともあり、気が付けは日本全国津々浦々のパワースポットを巡り倒していたそう。
函館で購入した中古物件。前の住人がお医者様だったそうで、重い専門書も安心な「超・頑丈な本棚」が備え付けられていました。
「本を1~2冊書くとほとんど網羅しちゃうんですよ。なのでそれが自分のストックになって、あそこも書けますここも書けますとなるから、色々なところから声をかけてもらえたんです」
仕事はできる人のところに集まる、というヤツですね。ライターとして本格的に活動を加速し、仲間が増え、仕事の幅もさらに広がり順風満帆の阿部さん。30歳でめでたく結婚、数年後に第一子のお嬢さんが生まれました。
「子どもが生まれて、なんとなく北海道で子育てしたいなあという気持ちがあって、函館に帰りたいなと思うようになりました。ただ、その時点でぼくが函館を離れてすでに15年以上経っていたので、今の函館事情が全然わからないんですよね。幸い何人か既に函館へ移住していた友人がいたので、話を聞いてみたいなと」
東京で暮らす中でも函館出身の人と会う機会は多く、会えば必ず「函館で新しくこんなのはじまったらしいよ」とか「あそこの店無くなっちゃったらしいよ」といった地元話に花が咲くそうで、「いつか帰りたい」という話になることも。
自分が知りたい「函館に移住した人の話」を、知りたいと思っている人は自分の周りにもいそう。だったら自分の知識にするだけで終わらせるのはもったいない。そう考えた阿部さんは、移住に向けた情報収集の過程で集めた情報を編んで発信するメディアを作ろうと思い立ちます。
『IN&OUT -ハコダテとヒト-』は、内側と外側の視点から函館のことを考えるメディアです。「人々のリアルな声から街の姿を掘り起こす」をテーマに、人に焦点を当てた記事を発信しています。
創設メンバーは阿部さんを含む函館出身で、東京での暮らしを経験した4名。それぞれが自分のスキルを持ち寄り取材・撮影・Web作成・マーケティングなど業務を分担しました。メディアのコンセプトを決めるにあたって、阿部さんには一つの思いがありました。
「なんかこう『函館最高!』という内容にはしたくなかったんです。かつてのぼくも、函館に物足りなさを感じて上京したわけで、そうした意見もフェアに扱いたいなと思ったんです。だから函館に移住した人だけではなく、函館から外に出てがんばっている人にも話を聞かせてもらいました。テレビや雑誌で見る著名人のインタビューって、自分とは違う世界の話に聞こえてしまいがちなので、『同じ街で遊んで育った人が今東京でこんなことをしている!』みたいな、同じスタート地点から始まる話として伝えたかったんです。自分が18歳の頃にこんなメディアがあったら、もっと具体的に未来を描く助けになっただろうなと思って」
内と外、両面から光を当てて函館の姿を照らし出す。阿部さんたちのこのメディアは「IN&OUT」と名付けられました。インタビュー記事を更新していくにつれ、SNSやメッセージを通じて読者から意外なほど多くの反響が届いたそうです。
また、企業や団体からメディア制作のオファーが来たり、Webメディアの執筆・撮影の依頼が舞い込むことも増えていきました。講演の仕事など移動費が出るものもあり、こうした仕事に合わせて取材を行うこともあったそうです。こうして函館移住の情報を探りながら数年間、東京と函館を行ったり来たりする生活が続きました。
阿部さんがこれまで手がけてきた制作物の数々。一冊一冊に、かけがえのない思いが込められています。
函館で子育てをしたい理由と仕事の不安
時は流れ2020年。当時東京オリンピック出場選手へのインタビューの仕事の依頼があり、函館に帰る前にこれを成し遂げて、東京での仕事の集大成に!と意気込んでいた阿部さん。
ご存じの通り、東京オリンピックは新型コロナウイルスの世界的流行により延期になりましたが、きっちりと仕事を納め、39歳のときについに函館に帰郷しました。
東京での暮らしに区切りをつけ、函館での生活をスタートさせた阿部さん一家。改めて函館にUターンした動機について聞いてみます。
「東京では好きなバンドやサッカーの国際試合も見られるし、有名な画家の展覧会も開かれます。それらは函館にはない都会的な楽しみとして東京でのぼくの生活の中にあり続けました。だけど、子育てをする中で、お金を払って楽しむ消費的な遊びが多いなと思うようになったんです。ぼくは自然が豊かな環境で育ったので、釣りとかスキーとか、今日より来年もっと上手になれるような、積みあがっていく遊びが多かったなと思ったんですよね。そうやって積み重ねてきた経験が、子どもと釣りをしたりスキーをしたり、今の自分の生活を充実させてくれている実感があります」

都会的な楽しさはお金で買えば手に入るものが多いけれど、自分の中に残る経験を得るには時間と子どもの頃の開かれた感性が必要。地方の人は憧れだけで都会に出ていけますが、都会の人が利便性に欠く地方に移り住むのはハードルが高い選択です。
「自分は地方で育って都会に出ていったからこそ、両方の良し悪しを経験できたし、その上で函館に住むことを選べたのはよかった」と阿部さんは考えています。「大人が子どもに与えてあげられるのは環境だけ」と考えて、東京ではなく函館の環境を選びましたが、自分がいいと思ったことを子どもたちに押し付けることへの葛藤はあったそうです。
「ぼくは函館がいいと思って戻ってきましたが、子どもたちにとっても理想的な環境だとは限りません。18歳くらいになったら函館を出たいとなるかもしれないし、なってほしいですね。そんな風に考えると、あと何年一緒にいられるのかなと思ったりもします」
移住後のお仕事についても聞いてみましょう。
阿部さんが積み重ねてきた連載60本をベースに、空白の時間を埋める書き下ろしや、身近な視点からの家族インタビューを加え、重層的な「完全版」として一冊の本に結実した「函館Uターン紀行」。単なる移住の記録にとどまらず、土地とともに生きる喜びや葛藤が、等身大の言葉で綴られています。
「こっちに戻ってくるにあたって、ライターや編集者の仕事が続けられるのかどうか不安でした。ただ、コロナ禍のおかげで色々なことがリモートでもできるようになっていました。ぼくは住む場所と仕事を天秤にかけて進路を選びましたが、今ならどちらも取ることができるんじゃないかと思いました。幸せなことに、現在も東京までの移動費を出してでも仕事をオファーしてくれるクライアントさんがたくさんいて、東京にいた頃と同様に仕事をやり続けられています。ありがたいことです」
メディアの最前線は東京。そこで長年誠実に仕事をし積み重ねてきた実績が、地方に拠点を移した今もライターとしての生活を支えてくれているのです。
以前、阿部さんは企業から依頼を受け、オウンドメディアの立ち上げに関わったことがありました。色々な部署の人の話を聞き、社員の方よりもその企業を知っていると言えるくらい調べ尽くし、当事者のような気持ちで一緒に作り上げる。そういう姿勢で今も取材を続けているそうです。
「ぼくはずっとフリーランスで、一度も就職をしたことがないんです。だから企業の様々な部署を訪れて話をきくというのは、僕にとって旅と同じように未知のものに触れる特別な体験でした。フリーランスは色々な領域を横断して聞くことができる、ジョーカーのような動きができるポジションだなと思っていて、その視点を生かすことで企業の魅力をよりよく伝えるお手伝いができるし、その姿勢をもってやってきたことで今も変わらずお仕事をさせていただけているのかなと思っています」
住む場所を変えるのか、それとも今の場所を愛し抜くのか。人生の選択に、あらかじめ用意された正解などありません。大切なのは、自分が納得できる道を一歩ずつ進むこと。二つの異なる視点を持つ人々の物語が、迷いの中にいる誰かの「次の一歩」を照らす光になりますように。
遣唐使のようにまちへ活力を注ぐ存在に
「ぼくは文章を作る仕事がすごく好きで、特に最近思うのは、この仕事は自分の経験がそのままスキルや感性を育んでくれるということです。結婚をしたから結婚について実感があるし、子育てをしているから理解できるようになったことがある。この先親の介護や子どもの受験を経験したら、また想像できる範囲と使える言葉がどんどん広がっていくんだろうなと思います」
かつては感性や情報の感度は若いうちだと思っていたという阿部さんですが、インタビューのお仕事をしていても年を重ねるごとに良い仕事ができている実感があると言います。
「70歳になったとき、今よりもいい文章が書けると思ったらなんか希望があるし、いい仕事を選んだなと思います」
またこんな話も。
「東京にいる頃って、取材することがインプットで、まとめて書くということがアウトプットという感覚だったんですけど、今は取材に行ってまとめて書くまでがインプットで、それを自分のまちにインストールするということがアウトプットだと思うようになってきたんです」
石巻市渡波の子どもたちと造形作家・犬飼ともさんが、震災の瓦礫に新しい命を吹き込んだ「ワタノハスマイル」。その誕生から2年半の歩みを一冊にまとめた作品集『ワタノハスマイル-笑顔になったガレキたち-』 に、阿部さんもライターとして参加。ガレキが笑顔に変わる瞬間の、たくましく優しい想像力が凝縮された一冊です。
例えば「となり町でこんな取り組みをやっているから函館でもやってみよう」「あのお店のやり方が良かったからこっちでもやってみよう」といったように、取材で得た知識はまとめるだけでなく共有することでまちの活力になる、ということです。
その姿はまるで、遠く唐の国に渡り文化や学問を日本へ持ち帰った遣唐使のよう。
「これから遣唐使を名乗ろうかな(笑)」
人もまちも少しずつ変わり、見える景色も変わっていきます。阿部さんを取り巻く環境も同様です。函館移住までの日々をつづったエッセイ「函館Uターン紀行」を発刊しました。Uターンして改めて見えた函館の魅力を編集した「生活圏」も発刊しました。IN&OUTは2名体制になり、今は音声メディアでの情報発信を続けています。
地元FMのラジオ番組のパーソナリティの仕事がきたり、まちのイベントの相談をうけたり、思わぬ大物の訪問があったりと、いまや「ライター」という言葉が持つ印象を超えて活動が広がっていました。
「何かまちのことをやる団体を作った方がいいかもしれない」
函館旧市街を拠点とするOld Town Junctionのプロフィール写真は、写真発祥の地・函館で「ガラス湿板写真」を継承する写真家・小池貴之氏の手によるもの。築100年超の建物で、100年前と同じ技法を用い、数秒間の静止を経て焼き付けられた一枚。修正のきかない一発勝負の中には、過去と未来が交差するような不思議な時間が流れていました。函館の歴史文化と共に歩む彼らの覚悟が、この一枚に静かに刻まれています。
そう考えた阿部さんは、2025年12月、仲間2人と一緒に一般社団法人 Old Town Junction HAKODATEを設立しました。古くから世界とつながり情報や文化が交わる函館。そのアイデンティティを生かし、ローカルと世界がつながることで「ここなら、いい人生が送れそう」と思える街をめざし活動を始めています。
「東京に住んでいた時はいつまでも借りぐらしの気持ちでしたが、今は函館に対しておごりも謙遜もなく自分のまちだという感覚があります。だから運命共同体というか、このまちが良くなっていくことが、自分のくらしや仕事にも直接影響してくる。今年はこれに力を入れてやっていこうかなと思っています」
この冬は早速青森と函館をつないだイベント「青函往来」を成功させたOld Town Junction HAKODATE。阿部さんと函館がつないでいく、新たな函館のグローバルとローカルがどんな未来を見せてくれるのか、今から注目です。
取材中、学校帰りの小学生3人組がニコニコしながらこちらを覗いています。阿部さんのお子さんとお友達でした。取材で使わせていただいたカフェの店主さんともすっかり顔見知りの様子で、あいさつをして帰っていきます。聞けばこうした光景は阿部さんの周りでは珍しくないのだそう。こうしたまちと暮らしの距離感の近さも、阿部さんが気に入っているところ。
「人と人の距離が近いことは好き嫌いが分かれると思いますが、ぼくはこの感じが好きなんです」そう言って笑います。
函館に根付き、暮らし、まちに元気を注ぐライター(≒遣唐使)。地方都市で生きるフリーランスが秘めた可能性の大きさに、なんだかワクワクしてきませんか。

- IN & OUT -ハコダテとヒト-
代表 編集者・ライター 阿部 光平さん - URL
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