
鉄道のまち、安平(あびら)市の追分地区(旧追分町)で長く地域に根差してきたお葬式屋さんがあります。追分葬祭の代表、明石(あかいし)美喜男さんは76歳。この仕事に携わってから30年ほどになります。片時もスマホを離さず、深夜や早朝でも依頼があればすぐに対応。地元の登録スタッフと連携を取って、お葬式に関するすべてのことを取り仕切っています。
意外な前職から現在の仕事に至るまで、求められるまま、流れるように生きてきた明石さん。謙虚な話し方やそのたたずまいからは、長年をかけてご本人が培ってきた矜持のようなものを感じさせます。まちの人たちと時代の変化を見守りながら生きてきた明石さんに、約50年にわたる暮らしと仕事に対する思いをお聞きしました。
SLの歴史が息づくまち、安平町追分地区
こちらが今回お話を伺う、追分葬祭代表取締役の明石美喜男さん
まずは、「鉄道のまち」と呼ばれる安平町の追分地区の歴史について軽くふれてみましょう。
石炭が主要なエネルギーだった時代、安平町の「追分駅」は、石炭を夕張や岩見沢から港のある室蘭まで運ぶ鉄道の要衝でした。たくさんの蒸気機関車を格納できる巨大な車両基地(機関区)が設けられ、日夜問わず働く鉄道員のために、駅周辺には飲み屋さんや映画館、ボウリング場などの娯楽施設が多く建ち、とても賑わっていたといいます。やがて、エネルギーの主役は石油に変わり、蒸気機関車もディーゼル機関車に取って代わられました。追分駅は、国鉄のSLラストランの地であり、近くにある「道の駅あびら D51(デゴイチ)ステーション」の鉄道資料館では、当時使われていた貴重なSL車両を保存展示。当時、追分機関区で働いていたOBグループが丁寧に手入れを行っており、まるで現役のようなその雄姿は、鉄道員の妥協を許さない誇りを感じさせます。
鉄道員がお客さんの「わや」な日々
明石さんは、どのようにしてこのまちと関わりを持ち、葬祭業を営むようになったのでしょうか。明石さんの前職はマージャン店、つまり雀荘の経営でした。そのきっかけは、半世紀前の学生時代にさかのぼります。明石さんは、札幌大学の第1期生として入学しました。ちょうど、ザ・ビートルズが来日してバンドブームが巻き起こったころです。エレキバンドを組んだ明石青年はギターで活躍、札幌の繁華街にあるビルでダンスパーティーを開催したこともあったとか。
当時は、ロングヘアで裾の長いチェスターコートを羽織ったスタイル。周囲からは「ベートーベン」と呼ばれていたそうで、いまの明石さんからはまったく想像がつきません。当時は女性にモテたのでは...?と聞いてみたところ、「いやあ」と穏やかにほほえむのみ。長年の間、裏方として地域を支えるお仕事に注力してきた姿勢が、そのまま謙虚なお人柄になっているようでした。
学生寮ではよくマージャンで遊んでいましたが、後輩から「遊べる場所をつくってほしい」と頼まれて、卒業後は雀荘の経営をはじめます。やがて、旧追分町に移ってマージャン店を構えました。お客さんは、ほとんどが当時の国鉄の鉄道員。お酒を飲みながらのマージャンではいろんなことがあったそうです。「自動マージャン機が壊れたりして、直すのは大変でしたね」と、昔の苦労を笑顔で振り返る明石さん。血の気の多いお客さんたちと「わや(北海道弁で「大変」というニュアンス)」な日々を送りながらも、彼らの重労働を知っていたからこそ、夜勤明けで朝にマージャンを楽しみに来るお客さんのために、24時間の通し営業にすることもあったそうです。
頼まれて葬祭業のお手伝い、そして代表に
そんな明石さんが、葬祭業を兼業していたお花屋さんから手伝ってくれないかと頼まれたのは、20年ぐらい前のこと。すでに国鉄はJRとして民営化し、追分駅に残っていた運転区もなくなって鉄道関係者は激減。マージャン店に来るお客さんが減っていた明石さんにとっては、ちょうど良いタイミングでした。とはいっても、お葬式に関してはまったくの素人。それでも、最初から現在とほぼ同じ量の業務をこなしていったといいます。明石さんに、お葬式の仕事の流れについて教えてもらいました。
「電話に連絡が入ったら、まずご遺体を病院にお迎えに行き、ご自宅まで搬送します。当方ではご遺体を安置する施設『おもいやり』もご用意しています。ご遺体に仏衣を着せることも基本的には私が行っています。この地域には、お葬式ができる複数の公共施設がありますし、指定のお寺があればお寺で、会場や祭壇づくりをいたします。町内会の人たちがお手伝いをしてくれることもありますが、そうでない場合にも、追分葬祭では10名前後の登録スタッフがいるので柔軟に対応することができます」


落ち着いた声と姿に頼りがいを感じさせる明石さんですが、それでも最初のころは、ずいぶんと苦労したといいます。「お坊さんからは、お焼香に使う香炭の置き方、仏具の手入れなど、ずいぶんと厳しく言われました。また、あるときは葬儀委員長の方から『出ていけ』とアゴで出入り口を示されたこともあります。しかし、むしろこのような注意をしてもらったからこそ、一人前に育てていただけたと、いまは感謝しています」
ひとりで営んでいたマージャン店と、突発的に入る葬祭業との両立は難しそうですが、助けてくれたのはなじみのお客さんたちでした。電話の依頼が来ると、彼らがお店の留守番役をかってくれたといいます。
そうしてマージャン店と葬祭業の二足のわらじで頑張っていた明石さん。2015年になって、当時の代表から追分葬祭を継がないかと打診を受けました。明石さんも60代半ばになり、マージャン店のお客が減っていたこともあって、葬祭業を専業として引き継ぐ決意をします。
マニュアルではない、いつまでも修業が続く仕事
明石さんの1日の流れを追ってみましょう。
自宅は10km離れた隣町にありますが、ほとんど追分の事務所に常駐しています。「葬儀依頼の連絡が来るのは、なぜか夜中から明け方が多いですね。この事務所には仮眠室があり、夜間はそこで横になっています。スマホは常に耳元に置いていますし、トイレでも離しませんね。午後4時半になったら三川の自宅にいったん帰りますが、いつ声がかかるか分からないので、家でもテレビを見たり、缶ビールを1本飲む程度かな。お酒を飲まないドライバーを常に2人確保しているので、運転はその人たちにもお任せできます」
自宅ではトラックなどの運転手をしている息子さんと2人暮らし。娘さんは札幌に住んでいるそうです。奥さんは、他界されているとのことでした。
「妻は普通の人でしたよ。専業主婦で、2人の子どもを育てて...。こんな商売だから、夫婦で外出や旅行をしたことはありませんね。せいぜい、家で一緒にお酒を飲むぐらいで...、妻のほうがよくしゃべりましたね。私は聞くほうでね」
ふふ、と笑いながら振り返る明石さん。同じように、マージャン店に通っていた鉄道員たちも、いまでは「見送る」ことが多くなっています。
「何歳で亡くなったとしても、たとえ百歳であってもこれでいいということはないんですよ。やはり残された人たちは悲しんでいらっしゃいますから」
そう話す明石さんは、将来的には息子さんに追分葬祭を継いでもらうつもりだと話します。
「私が2、3年教えてからと思うけれど、この仕事は『これでいい』とは、なかなか言えない部分もあります。マニュアル通りにはいかないからね。徐々に、ずっと、いろんなことを覚えていかなければならない...」
大変な仕事ですよ、と、ぽつりと言いました。
「ご遺族の悲しみをお聞きしていると、私もぐっと胸に来ることがあります。生前に話したことがある人は、特にね。涙が出てしまうときもあるんですよ。この仕事に向いていないとも思うし、自分自身でもまだまだ至らない面があるなと思っています」
いざという時のために「人生のしおり」を配布
人が亡くなると、お葬式の他にも、さまざまな手続きなどが必要になります。悲しみにくれる喪主、ご遺族の負担をなるべく減らしてあげられるようにしたい。それが裏方としての葬祭業の仕事だと自覚しながら、明石さんが地域の人たちに勧めていることがあります。それは、いざというときのために、自分の略歴や希望などを書き残しておくこと。追分葬祭では、独自に作成した書き込み式の「人生のしおり」を周辺のアパートなどに配る活動もしており、今後は高齢者施設にも届ける予定だそうです。
「このあたりで暮らしている住民の多くが高齢者なんですが、亡くなってしまったら、ご家族やご本人のことなどが分からず困ってしまうケースがあるんです。そこで、お役に立てればとパソコンができるスタッフの人に作ってもらいました」と明石さん。ご本人のためにも、残された人たちのためにもなると、考えています。
「追分ではね、出棺のときに故人が好きだった演歌を流すことが多いんですよ。音楽好きな人が多いんですよね」
そう言ってほほえむ明石さんに、半世紀暮らしてきた追分のまち、追分のひとへの強い愛着を感じました。