北海道の最北・稚内市から東へ車で1時間。オホーツク海に面した猿払村は、村としては北海道でいちばんの広さを誇ります。ホタテ漁で有名ですが、内陸側には広大な耕地や牧草地が広がっており、酪農業が営まれています。今回おじゃました「渡邊牧場」も、浅茅野(あさじの)というエリアで380頭の乳牛を飼育している牧場。跡を継いでから規模をここまで拡大してきた代表の渡邊祐世(ひろよ)さんは、「僕で2.5代目です」と笑います。てっきり3代目か4代目かと思いきや、2.5という謎の数字が!なぜ、2.5代目なのかも含め、牧場の歩みや渡邊さんが考えるこれからのビジョンについて伺いました。
猿払の荒れ地で始めた酪農業
幻の淡水魚「イトウ」が生息する猿払川。北海道らしい雄大な自然が広がります。
「渡邊牧場」へ向かう道、どこまでも広がる海と美しい牧草地は、いつかテレビでみたアイルランドの自然にどことなく似ていて、まるで海外にいるかのような気持ちになります。あちらこちらでエゾシカが顔を出し、ひんやりとした秋の空気は、木々の色を黄色や赤に染め、日本最大の淡水魚「イトウ」が生息する猿払川では、のんびりと釣りを楽しんでいる人も。そんな雄大な猿払の自然に感動しっぱなしの取材班が牧場に到着してさらに感動したのが平らで広い牧場のその風景でした。温かく迎えてくれたのは、代表の渡邊祐世さんと妻の結希子さん。「今日は写真も撮るんですよね?!この格好で大丈夫かな?」と笑う結希子さんの明るい笑顔に癒やされます。
渡邊牧場 代表の渡邊祐世さんと結希子さん。
「うちは、このあたりの酪農家と違って代々酪農をやっているわけではないんですよ」と祐世さん。戦前に国の役人だった曾祖父が広島県から樺太へ木材資源の調査で訪れ、その豊富な木材の資源を見てこの場所はこれから事業を始めるのにいい場所だと役人を辞め、その場ですぐに商売を始めたそう。いろいろな事業を行っていたようで、牧場の看板に付いている「丸二」というマークはこのころの屋号なのだそう。
「戦後、命からがら最後の船で稚内へ引き揚げてきたと祖母から聞いています。うちの祖父は漁船に乗ってあとから戻って来たらしいです。中には途中で攻撃されて海に沈んでしまった船もあったそうなので、そういう意味では祖父たちが無事に戻ってきてくれたから、今の自分があるんだなと思います」
手広く商売をしていたため、手持ちの現金はそれなりに持ち帰っていたという祐世さんのおじいさんでしたが、その後ひどいインフレが進み、それらはただの紙切れになってしまいます。
「それで祖父らは知り合いの牧場でしばらくお世話になっていたようですが、地に足付けて農業をやろうとなって、土地を探して流れ流れて猿払のここへたどり着いたみたいです」
ところが、この場所は戦時中に飛行場として使われていた場所。広さはあるものの草も生えない、農業や酪農をやるのに決して適しているとは言えない土地でした。
牛舎を撮影させてもらうと「誰だ〜??」とばかりにこちらに興味津々の牛たち。
「猿払自体は道北でも恵まれた酪農地帯と言われてきたんです。ここもすでに開拓が進んでいて、うちが入った時には、まとまった土地は戦中立ち退きさせられていたここしかなかったんでしょうね。今はありませんが、移り住んだときは兵舎が残っていたらしく、そこでひと冬かふた冬は過ごしたと聞いています」
第一印象の「平らで広い」というのも、かつて飛行場だったということで納得です。それにしてもここにたどり着くまでなんともすごいドラマがあったのだなと驚きます。すると、結希子さんが「この話、まだまだ続きますけど、時間大丈夫ですか?」と笑います。もちろん、ぜひとも聞きたいです!ということで、「渡邊牧場」の歴史はまだ序盤。これから物語は続きます。
突如として現れた渡邊家の番犬・リー。取材陣が敷地内を移動するたびに先頭を歩いて案内してくれました!
難病に侵された弟の想いと家業を継ぐ覚悟
土地を手に入れたものの、そもそも草が1本も生えていない場所でしたから、まずは酪農ができる環境を整え、牛を入れなければなりません。そして、その間も家族みんなが食べていけるように稼ぎが必要となります。
「うちの父は5人兄弟の長男で、ここの牧場自体は祖母と父が中心に切り盛りすることになるのですが、家族を養うために父は近くの王子製紙の所有する山で出稼ぎをしていました。肝心な祖父は樺太で裕福に育ったためか、酪農などの労働より机に向かっているような仕事がよかったようで、ほとんど地元にいなかったようです」
一頭のオス牛から飼い始め、少しずつ頭数を増やし、メス牛を入れてある程度まとまった牛乳を出荷できるようになるまでには、かなりの時間がかかったのだそう。
「自分が物心ついたときの父は、王子製紙の山の仕事ののちに始めた『家畜商』という牛の売買の仕事がうまくいっていたこともあり、周りの牧場のように牛を育て生乳を絞って生計をたてるという農場ではなく、祖母と母で牛の世話をしながら搾乳もしていましたが、基本的には牛を安いときに買い、高いときに売るということを目的とした牧場でした」と振り返ります。
子どものころから祖母に「農業、酪農で地に足つけて頑張れ、丸二という屋号を守れ」と言われ続けてきたという祐世さん。「有事の際も農業をやっていたらなんとかなるからという祖母の想いもあって、完全に刷り込まれていましたね」と笑います。
「僕には一つ下に弟がいるんですけど、僕は機械いじりが好きだったこともあって、弟が牧場の跡を継ぐって言っていたんです。でも、小学生のときに弟が倒れ、最初は原因も分からず、あちこちの病院で診てもらって、何年かして亜急性硬化性全脳炎という難病だと分かり、結局寝たきりになってしまって。そこで初めて弟の分も俺が頑張らないとって思ったんですよね」
「今も頑張る糧になっているのは、やはり弟の想いが強く心にあるからですね」と祐世さん。
家業である酪農にしっかり取り組もうと決意した祐世さんは、弟さんの入院に付き添う母に代わって小学生になったころから酪農の仕事を積極的に手伝うようになります。高校へ進学し卒業後はそのまま家業を継ぐつもりでいましたが、周りの親戚から一度外へ出て視野を広げたほうがいいと言われ、札幌市のとなり江別市にある酪農学園大学へと進学することとなりますが、家の酪農の仕事が忙しく、なかなか大学へは行けずに家を手伝う日々。
「冬場など行ける範囲で大学に通っていたため、卒業に6年かかりました(笑)。でも、大学の寮で出会った仲間たちがうちに来て仕事を手伝ってくれるってことになり、みんなを連れて猿払へ戻りました。というのも小さな家族経営からの脱却をしなければとずっと考えていたんです。酪農をやりたくない人に跡を無理矢理継がせるより、やりたいという人を育てて、人材の層を厚くして、きちんと会社として大きく酪農をやったほうがいいと考えていたので」
祐世さんが考えに考えて作った思い入れのある新牛舎。
そうして25歳で父親から事業を継承し、仲間や後輩たちと会社を興して酪農経営をはじめようと思っていた矢先、思ってもみないことが起こります。
「父親が急に反対し始めたんです。事業を継承したので経営者は自分なんですけど、土地は父親のもの。単純に跡を継いだ感じじゃなくて会社を興すことを面白くないと思ったのか、ここから出て行けと言われ、まあ揉めてしまって。結局、飼っていた牛を少しずつ処分して、仲間や後輩たちにも謝って...」
いろいろな手続きごとなどが終わると、「一般的な社会に出て世の中を学ぼう」と祐世さんは札幌へ出ます。弟さんの想いも背負っていた祐世さんは、「札幌に出ても絶対に猿払に戻って牧場をやるつもりだったので、とりあえず外で働くのは数年と考えていました」と話します。
平坦で広〜い牧場は、飛行場として使われていたと聞いて納得です。
札幌で運命の出会い、そして再び猿払へ
30歳になる前には結婚したいと考えていた祐世さん。まだ酪農から離れることになる前、たまたま札幌に遊びに行ったときに開催されていた婚活パーティに1度だけ友人と参加します。そこで出会ったステキな女性、それがのちに奥さまとなる結希子さんでした。当時、病院でソーシャルワーカーの仕事をしていたそうです。
「私は生まれも育ちも札幌。周りに農家や酪農家の人がいなかったこともあって、彼の話を聞いていて、面白い人だなぁって思ったんです。しかも、今は家を出ているけど、いつか必ず戻って酪農やると熱く語っていて、なんだかそういうところに惹かれたのが最初ですね」
出会った頃の祐世さんについて「酪農業が大好きな青年なんだなという印象でした」と結希子さん。
一人暮らしをしていた結希子さんのところへ転がり込んだ祐世さんは、「本当は1年くらいあちこち旅でもしようかなと思っていたんです。仕事を探すのはそれからでもくらいに思っていたら、彼女の親の手前、とにかく就職してほしいと言われ、機械のレンタル会社に就職しました」と笑います。
ところが就職したことを猿払の父親に連絡すると、慌てた様子で「戻ってきてくれ」と意外な返事が返ってきます。
「このまま結婚して、札幌にいられたらマズイと思ったんでしょうね。結局いつかは農業を再開しようと考えていたので。それで、とりあえず1年も経たないうちに会社を辞めて猿払に戻りました」
戻ったものの、父親が土地のほとんどを近隣に3年間の契約で貸してしまっていたため、すぐに酪農を再開することはできず、祐世さんは「古い牛舎を自分で直したり、貸していなかった未整備地をおこし直して、種をまき牧草を育てたり、地道なことから始めました」と話します。
そんな紆余曲折があり、猿払に戻った当初ほとんどいなかった牛も、現在では約380頭(搾乳牛200頭)に増えました。渡邊牧場では、すべての作業を自分たちで行うことにこだわり、外注を極力避けています。時間と手間をかけながら、牧場のペースに合わせて徐々に成長させていくことで、無理なく持続可能な運営を目指しています。そのため、なんでも学び、挑戦し、やりたいことを自分たちの手で形にしていく姿勢を大切にしています。
「牧場では、子牛から搾乳牛まで自ら育てています。一般的には預託牧場に子牛を預けることが多い中、渡邊牧場では牛舎や牧草の管理、日々の作業をすべて自分たちで行い、協力し合いながら奮闘しています。また、牛に与える牧草も最適な時期を見極め、自ら収穫してサイレージを作っています。高額な機械の購入やメンテナンスも自分たちで行い、『壊さないように使う』工夫を重ねることで技術を磨いてきました」と祐世さん。
近年ではメンテナンス費用や預託費用も高騰していますが、自分たちで作業を担うことでコストを抑え、効率的で持続可能な牧場運営を実現しているのだそう。助け合いながら成長を続ける、それが「渡邊牧場」のこだわりです。
「そんなこんないろいろなことがあって、本当だと3代目なのでしょうが、祖母と父で酪農をやっていたので、それで2.5代目です」と祐世さん。やっと納得です。
得意なことを一生懸命やればいい
結希子さんと結婚し、3人の男の子にも恵まれ、牧場の規模もどんどん大きくしてきた祐世さん。現在は、外国人のスタッフも含め4人の従業員が牧場で働いています。
お休みの日は飼っているゴールデン・レトリバーと遊んで過ごしているという、牛の育成・分娩担当の朝日教徳さん。
そのうちの1人、朝日教徳さんはアルバイトで入ってから通算7年勤務。実家が酪農を営んでおり、手伝いはしていたそうですが、朝日さん自身は長く建設業に携わっていました。「うちの実家は家族経営で小さい規模ですが、ここは牛の数も多く、規模も大きい。社長は自分よりも年下だけど、あの年齢でここまで牧場を大きくするのは本当にすごいなと思います」と感心した様子で話します。
「知り合いの紹介でアルバイトとして来ていた当初は外回りの機械作業などを担当していたんですが、実家の手伝いをしていた経験もあったから、牛の世話もやり始めたら、結構好きだし向いているなぁと思って。今は牛の育成や分娩を担当しています」
祐世さんと結希子さんも「朝日さんは仕事熱心で、牛のこともかわいがってくれるし、分娩担当として頼りにしています」と話します。
仔牛はとてもデリケート。そのため「ちょっとした変化」に気づくことが非常に大切です。
毎月30頭近く生まれる分娩を朝日さんが中心で見ているそう。しかも朝日さんが担当してからほとんどが安産なんですって!
もう1人の日本人スタッフ、森川由雅さんは重機など機械の操作担当。音威子府のガソリンスタンドで自動車整備の仕事をしていたそうですが、1年ほど前にここへ来ました。「動物は好きだけど、牛はまだおっかない」と笑います。
「由雅は機械がいじりたくてうちに来てくれました。彼が来てくれたおかげで、牧草の収量が増えたんです。それまでは1人でやっていて手が回らなかったんですけどね」と祐世さん。森川さんも「やりたいことをやらせてもらえているのでありがたいし、それで助かっていると言ってもらえたらうれしい」と話します。
「祐世さんも結希子さんも、なんでも教えてくれるし優しいっすよ。僕はまだペーペーですから」と森川さん。ですが、祐世さん曰く「こっちがケツ叩かれることもあるんですよ(笑)」とのこと。
祐世さんは、「自分の考えとしては、従業員1人ひとりの得意なことを生かすことが大事だと思っています。得意なことややりたいことを一生懸命やってくれたらいいと思う」と続けます。結希子さんも「それぞれ大事にしているものってあると思うんです。どうしてもゆずれないものとか。そういうのをきちんと聞いて、それぞれに合った仕事や働き方を見つけていくのが夫や私のやり方です」とニッコリ。
祐世さんがこっそり、「うちの嫁さんは人を育てるのがうまいんですよね。嫁さんのおかげで、いい人材がうちで仕事をしてくれていると思います。僕自身も結婚してだいぶ丸くなりました(笑)」と教えてくれました。夫婦の二人三脚ぶりが伝わってきます。
渡邊家の長男・小学校6年生の祐偉くんは森川さんを大きなお兄さんのように慕っていて、車や機械のことをいろいろと教わっているそう。
広い敷地内には、従業員のための住まいも新たに建てるなど、これから人がもっと増えても対応できるように進めているそう。
柔軟なやり方で、猿払の未来に繋げたい
広い牧場内を案内してもらいながら、これからのことなどを祐世さんに伺うと、「酪農だけにこだわっているわけじゃないんです」と意外な言葉が。
「正直、酪農だけでは、これから伸びていくのは難しいと思っています。実際、周りでも離農していく人が残念ながら増えていますし。だからこそ、酪農もやりつつ、小麦や蕎麦など、ここでもできるような畑作もやりたいと考えているし、運搬する仕組みを考えて運送業もやったほうがいいかなとも考えています。とらわれすぎず柔軟な考え方で、求められていることをやっていくことが大事。でも、それはうちだけが儲かればいいということではなくて。うちだけが儲かっても、村から人がいなくなったら意味がないですから。だから、人が出ていかないようにするためにも稼ぐ力や稼げる資源を用意して、村で回していけるようにしなくちゃならないと思うんです」
札幌で仕事に就こうと思っていたときも、猿払村で酪農をやるときに役に立つ仕事を探していたという祐世さん。
今、建設中の新しい牛舎は自分たちでできるところはやろうと考え、なんとミキサー車を購入したんだとか。「猿払って、日本で一番コンクリートの値段が高いんです。運搬費もかかるので。それなら、自分たちでやれることはやろうって思ったんです。自分たちで色々なことができるようになって、仕事もお金も村で循環させていけるような状態にしたいと思っています」と続けます。
さらに、「ここ数年、シカの被害が多くて困っているんですよ。サイレージの牧草を食べられてしまったりね。だからハンターの資格も取ったんです。仕留めたシカで、ペット用のシカ肉の加工をやろうと思って。それを村の特産品にもできたらいいなと構想しています」と楽しそうに語ります。
新しい牛舎も自分たちで。出て行くお金を最小限に抑えます。
立地的な不利も、想定外の獣害も、すべてネガティブに受け止めるのではなく、むしろそれを生かそうという祐世さんの発想と行動力には驚かされます。そして、そこには猿払村への愛も感じられます。
「子どもたちには酪農をやれとか、跡を継げとは言っていません。ただ、いつかこの地域に根差した何かをやりなさいと言っています。都会に憧れ、村には何もないと言って出て行く人は多い。でも、そうではなく、まずこの村で何ができるかを考えなさいと言っています。できないと思っているだけで、やろうと思えばできることはたくさんあるんですよ、本当は。もちろん、外を見てくるのも勉強だから一度くらい村をでるのもいいとは思いますけどね」
3人のお子さんたちも、ファームで働くみなさんと家族のように仲良し!
祐世さんは、子どもたちがこの村を好きで、この村に残りたいと思ってもらえるよう、大人たちが楽しそうにしている背中を見せることも大切だと考えています。「そのためにも地域で仕事と経済を回していかないとね」と、どこまでも続く広い牧草地を見つめながらあらためて決意を語ってくれました。
- 渡邊牧場
- 住所
北海道宗谷郡猿払村浅茅野台地2120番地2
- 電話
01635-5-7308