日本海に面した北海道留萌郡小平町(おびらちょう)の鬼鹿(おにしか)漁港は、道内日本海側におけるホタテ稚貝の供給基地として知られています。その鬼鹿漁港でホタテ貝養殖をしている「凌雲丸」代表である氏家均さんは、異色の経歴の持ち主です。小平町で漁師になる前は本州などで営業職として10年近くキャリアを積んでいたにもかかわらず、34歳のときに漁師の道へと進みました。
海好きを貫いたその生き方(生き様と言った方がいいかもしれません)は、力強く、「夢のもぎ取り方」とでもいえるような行動する勇気を私たちに教えてくれるようでした。氏家さんに漁師の仕事を選んだきっかけや現在の想いを伺います。
34歳からはじめたホタテ養殖漁業
小平町は北海道の北西、日本海に面し留萌市と苫前町と接する立地にあります。電波がぶつぶつと途切れがちな山を通り抜け、小平町へとクルマを走らせると、パノラマビューで海が視界に広がり、眼前の清々とした青さに心が弾んできます。
そんな美しい海が地平線まで続くまちに氏家さんがやってきたのは、2003年のこと。氏家さん34歳のときでした。現在は「凌雲丸」代表取締役であり漁船の「親方」として、忙しい毎日を送っています。
小平町に来てから出会った奥様の浩美さんは元公務員です。ザブトンカゴや丸カゴと呼ばれる養殖カゴなど漁師道具に囲まれながら、タブレット端末を片手に効率的な業務管理を進める姿が印象的です。ふたりは繁忙期には10人~12人を雇用し、ホタテ養殖事業を営んでいます。
こちらが奥様の浩美さん
「ホタテ養殖」というと、養殖場で育った大きく育ったホタテが市場を経てスーパーなどの店頭に並ぶ、という流れをイメージしましたが、鬼鹿漁港では稚貝(ちがい)まで育ったホタテの子どもを根室などに出荷。そこで放流され大きく育ったのちに収穫されるのだそうです。凌雲丸では250ミクロン(1mmの4分の1)ほどの産卵したてのホタテ貝を沖で獲り、1年かけて育てていきます。稚貝は根室のほかオホーツク地方へと渡り、半成貝まで成長したホタテは宮城県へ。成貝は韓国に渡っていきます。
漁師になることを夢見て、一人でこのまちにやってきた氏家さん。北海道の特産物であるホタテの養殖漁業を営むことになったそのあらましは、実に興味深いものでした。その後20年以上続く海の男の物語のはじまりは、「たった10分間」の出来事がきっかけでした。
10年の会社員生活。転機は能登の海
氏家さんは宮城県仙台市の出身です。北海道の小平町に家族や知人がいたわけではなく、34歳までは製造業の会社で営業職として10年ほど勤務していました。10年ほどの会社員生活の中で、転勤はなんと5回以上。東京、埼玉、福岡、石川、群馬...と転々と渡り歩いたといいます。当時を振り返り、転勤はいわゆる左遷が多かった、と氏家さんはいいます。元々、長いものに巻かれないタイプの性格でした。会社員として大きな組織の中での上意下達が求められる中で、組織の一員として勤め上げることに違和感を覚えていきました。
物腰柔らかく穏やかに語っていただいた(株)凌雲丸代表の氏家均さん
「仕事をしていて、自分の頭で考えて行動すれば結果を出せる方法が経験からわかってくるわけです。でも上司からの命令どおりにやるしかありませんでした。結果を出す過程に自由が与えられない環境は自分に不向きだと思いましたね」
転機は、赴任先だった石川県の能登で暮らしていた30歳のとき。海が近かったため釣りが趣味になり、それまで四六時中仕事ばかりの日々だった氏家さんは、仕事前の早朝と仕事帰りと、海釣りを楽しむようになりました。
「それまでずっと仕事人間でしたからね。釣りをする時間が楽しくて、クロソイやヒラメを狙って毎日のように海へ行っていました。仕事以外の時間はすべて釣りに注ぎこんで、平日も寝る間を惜しんで1日5時間位は没頭していたかもしれません」
ある日のこと、職場の付き合いで能登の海でクルーザーに乗る機会がありました。操船していた乗務員にどうしたら船を動かせる免許がとれるのか聞いてみると、1級船舶免許が必要であると知りました。氏家さんは夢中で勉強を始め、免許を取得します。
人生は生まれてから死ぬまで一本の線
海好きが高じて船舶免許を取得し、漁師の仕事をすることを思い描くようになっていきました。海に情熱を傾けたいから「漁師」になりたい。そして、雇われる生き方が自分の性に合っていないことを実感していたため、「独立」したい。氏家さんは「独立漁師」という目標を30歳の時に掲げました。ですが、実際に漁師になったのは34歳の時。独立して凌雲丸の旗上げをするのはまだまだ先のことです。
漁師になる目標を掲げながら、その後も会社員を3年続けることを決めます。
「自分自身の『納得感』を大切にしたかったんです。仕事を始めて以来、なりわいとして営業職を長く続けてきました。自分にとっての天井を破るような高い営業目標を設定し、その数字を超えてから、やり切ったと一つの区切りをつけてから辞めようと決めていました」
氏家さんは「生まれてから死ぬまで一本の線」と人生を一本線になぞらえて話してくれました。
「私たちはこの線からは、逃れられません。次につながる辞め方、ゴールを決めてコマを進めたいと思ったんです。それが私にとっては3年かかったというわけです」
世の中には自分で選ぶことができない環境や社会動向など大きなうねりが存在し、最近では親ガチャ、出身地ガチャ、配属ガチャなど「ガチャ」という言葉で表現されることもあります。氏家さんは線(人生)から逃れようとするのではなく、もがきながらでも自分なりに納得のいく一本の線になるよう行動していったのです。3年がかりで会社員という線に自分の一区切りをつけ、「独立漁師」をめざしていきます。
「独立漁師」。どの求人誌にも載ってない
ゼロからの仕事探しがはじまりました。「独立漁師にはどうしたらなれるのか?」当時、求人誌を隅々見てもどこにもそんな情報はなく、地方自治体で漁業研修があるという話を聞きつけて積極的に質問しても門前払いばかりだったといいます。
「1人前になるまで3年はかかって、1人前になっても売り上げ規模は500万円位かな、と言われたりしましたね。そうすると雇用労働力(従業員)に頼るのが難しいけど、陸上でオカ作業するパートナーがいないと仕事にならないよ。独身なの?じゃあどうするの?って」
ことごとく門前払いにあいながら、ようやく見つけたのは、三重県のある自治体で開催していた1週間ほどの漁業体験でした。どうにかチャンスをつかみたいと1週間のなかで「何年で独立できそうか」と必死に聞いてまわると、そこでは推定10年との話でした。10年もの間「船の雇われ乗組員」として働くことは、雇われない生き方を目指す氏家さんにはあまりに長すぎる時間でした。
独立漁師への道の険しさばかりが身に染みていた中、「最大の転機」となる10分間が訪れます。
漁師をめざし三重の自治体で漁業体験をしていた時に4人の仲間ができ、その仲間とともに東京で行われた漁業研修生募集フェアに参加したときの出来事です。
10分間の出来事。ここで働くと「決めた」
フェアでは全国各地の地域から漁業関係者が個別ブースを構えており、関心がある地域の人と話すには絶好の機会でした。どちらかというと、北の海というより、四国や山陰といった西日本の海で働くことに憧れを抱いていた氏家さんですが、それらのエリアのブースで個別に話を聞いても、条件がまったく合致せず、落胆したといいます。
フェアの終了間際の時間になりました。タイムリミットを迎え「もう帰ろう」と思った時、一緒に参加した仲間の一人が島根県のブースで話し込んでいました。終了までは、あと10分間。「仕方がない、待ってる間に最後に寄ろう」となんとなく座ったのが、「新星マリン」のブースです。北海道小平町の漁業協同組合でした。
「座った瞬間、『俺はここで働く』と不思議と吸い寄せられたんです。それは言葉でうまく表現できるものではなくて、直感的に『ここだ』と。そう思ったんです」
決意する瞬間というのは、頭で考えて論理的にカタがつく理由だけで説明できるものではないのかもしれません。「一本の線の人生」を描く際に、腹落ちする選択を小平町でしていくと「決めた」のでした。氏家さんは自分の直感、意思を信じたのです。
ちなみに実はラスト10分間で決断した氏家さんですが、同じく新星マリンを第一希望にして提出していたのは、フェア参加者のうち13人。13分の1だった確率をくぐり抜け、海の仕事、念願だった独立漁師としての最初の一歩をつかみ取ったのです。
「てめえで仕事しろ」 最高の職場
小平町にやってくるとすぐに仕事が始まり、独立漁師の親方の元で見習いとなり、親方からホタテ養殖漁業の承継を目指すことになりました。
「先代親方は『俺はてめえで仕事を覚えてきた。だからおめえも勝手に覚えろ』と引き継ぐ仕事を説明することはほとんどありませんでした。親方は、生まれも育ちも小平で、漁師の4代目です。親方と自分とは流れている血が違う。真似をするのはやめて、自分のやり方を見つけ出すしかない、と思ってやってきました」
考えてみれば、会社員時代から自分で考えて自分の仕事に挑みたかった氏家さん。「てめえで仕事しろ」という親方の方針は意外にも、最高の職場との出会いだったのかもしれない、と振り返って話します。沖での船上作業では早く仕事を覚えたい一心で、親方にさえ「どけ!」と荒々しい言葉で仕事を奪うようにがむしゃらに働いたといいます。
「今思い出すとあまりにも無礼ですよね。でも親方はそんな自分に注意したりはしませんでした。自分の進め方を尊重してくれた親方には感謝しかありません」
見習いとして働きはじめてから3年たち、親方から「おめえ、本当にやるのか?」と承継への意思確認があったといいます。
氏家さんが「はい」と応えると、親方は中古で800万円の船を購入したそうです。親方は当時65歳。後継者がいなければ船は買わずにそのまま引退を考える年齢でしたが、承継する氏家さんの熱意に賭けて決断したのでしょう。「もしも、自分が逃げたら立ち行かなくなるのに」と氏家さんは身が引き締まる思いだったと話します。
その後、独立漁師となり2017年に「凌雲丸」を設立。船名の由来は北海道大雪山系の凌雲岳から名付けました。「雲をも凌ぐ高い志を持っていよう」という想いを込めました。
生き方の一部にしたかった海。「決める」ことから始まった
ホタテ養殖をはじめて20年、氏家さんは次世代へのバトンも意識しています。「漁師になりたくても、船を持ちたくても手段がわからない。そんなかつての自分に重ね合わせて、跡を継ぎたい人が居れば育てたいと考えた時期もありましたが、そう簡単な話ではないかもしれません」と氏家さんは話します。
全国的な物価高騰の影響があり、資材は2倍、人件費は3割ほど上昇しています。また氏家さんの漁師歴の中でも、今年は例がないほどの不漁を経験。厳しい漁場が続いていることや、1年、2年の短いスパンでも変化が激しいため、漁師にも一層の変化対応力が求められてくると考えているとのことです。
それでも、高い志で海を生き方の一部にする夢をかなえた氏家さんの生き様に触れると、漁師の仕事には可能性が大きいはずと感じます。
生まれてから死ぬまでの1本の線の上で、生き方の一部に取り入れたかった海の仕事。ゼロから始まった氏家さんのチャレンジは、東京で開かれていたフェアの「ラスト10分」からでした。
のちに運命と呼べるような、偶然の機会。いつ、どこから降ってくるか、落ちているか、それはわかりません。氏家さんは東京の雑踏のビルで開催されたイベントに足を踏み入れたことで、夢が始まったのです。人生を変えるような一歩は、わずか10分の中にもあるのかもしれません。そう考えたらちょっと日々の行動やアンテナの張り方が変わってくる気がしませんか。
人生の線でどう生きるのか、夢をどうやってもぎ取るのか。それはなんら合理性も、周囲からの見え方も案外関係ないもので、まずは自分で「決める」ことから全てがはじまるのかもしれません。
- 株式会社凌雲丸 氏家均さん
- 住所
北海道留萌郡小平町鬼鹿港町114-1
MAIL:rum@imail.plala.or.jp