札幌から車で約1時間の場所にあり、1次、2次、3次産業のバランスがとれた、人口1万1千人ほどのマチ、北海道栗山町。希少な国蝶「オオムラサキ」が生息するほど、豊かな自然が残る町です。この栗山町に移住し、スペシャルティコーヒー専門店「ブンナ・タッタ」の開業準備をしているのが、同店の焙煎士とバリスタを務める石川優(まさる)さん。コーヒーとの出会いや、栗山町移住のきっかけなどを石川さんに伺いました。
闘病中に飲んだ1杯のコーヒー。
北海道北見市出身の石川さん。北見市は、北海道の東部にあり、札幌からは車で4時間ほどかかる場所に位置します。オホーツク海に面していることもあり、冬にはマイナス20度以下になることもあるほど、冬はとても寒い場所としても知られています。
北見市で学生時代を過ごした石川さんは、「北見は田舎すぎず、都会すぎず、住みやすかったので、大学卒業後に他の地域に行きたいという気持ちはありませんでした」と教えてくれました。
では、なぜ栗山町へ移住したのでしょうか。その鍵となるポイントは、石川さんが新卒で就職した頃にさかのぼります。
今回、取材させていただいた石川優さん。
「大学卒業後に、北見市役所に就職。窓口業務を担当し、毎日市民のみなさんと触れ合えるのが楽しく、仕事は充実していました。でも就職してから3年後の25歳の時に、なんの前触れもなく急に呼吸器系の病気になり、市役所を休職することに...」
咳などの辛い症状が続く中、地元の病院や、札幌市内の大学病院を受診をしても、原因はわかりませんでした。石川県に呼吸器の名医がいると聞いた石川さんは、すぐに石川県の七尾市にある呼吸器の病院を受診します。
「僕の症状が、かなり悪かったんでしょうね。即入院になり、病室で過ごす日々が始まりました。原因がわからず、入院が長期化していく中で、周りの患者さんと話す機会も増えていき、あるひとりの患者さんから『元気なうちに、やりたいことをやった方がいいよ』と、声をかけてもらったんです」
その時はピンとこなく、患者さんへは「そうですね」と返事をしたそう。治療の甲斐があり少しずつ体調が安定し始めた石川さんは、外出許可をとり近くのカフェにコーヒーを飲みに出かけます。
「それまでコーヒーに興味は全くなかったんですよ。そのカフェはたまたまコーヒー専門店で、味も香りも今まで飲んできたものと全く違うというのが、当時の僕でもわかりました。それからはそのコーヒー専門店を始め、外出許可をとっては近所のいろいろなカフェを巡るようになりました」
外出できるようになってからも、治療は続きました。病気の原因はつかめなかったものの、石川さんの体調は、咳などの症状が治まり日常生活に支障がない程度まで回復。医師からも退院の許可が出たため、石川県の病院を退院し、北見市に戻ることに。
北見市から札幌へ、恩人との出会い。
北見市に戻った石川さんは、市役所への復職準備をしながらも、石川県で飲んだコーヒーの味や香りが忘れられませんでした。
転職の2文字が、頭の中をチラつきますが...病気で休職するとなった時に快諾してくれた市役所の上司や、心配してくれた同僚を思うと、このまま転職するのも申し訳なさがあります。でも、本格復帰後に転職となっても、それもまた迷惑をかけるのではないか...と石川さんはひとりで、相当悩んだと言います。
コーヒーカップには強いこだわりがあるという石川さん。
その時ふと、石川県で知り合った患者さんから言われた「やりたいことをやった方がいい」という言葉を思い出し、決断します。
「コーヒーを勉強しよう。悩むのは終わりにして、コーヒーの世界へ飛び込もうと決めました。その数日後には、市役所へ退職届を提出し、コーヒーを学ぶのにベストな場所を探してリサーチを始めていました」
石川さんは精力的にコーヒー専門店へ連絡を取り、就職活動を行います。知り合い経由で、札幌のコーヒー専門店を紹介してもらうなど、とにかくコーヒーの知識を身につけることができる場所を探しましたが、ここである問題と直面することに。
「僕はその時すでに『いつかは独立して、自分のお店を持ちたい』と思っていたのですが、コーヒー専門店へ連絡しその想いを伝えると、『ずっとうちにいてくれる人がいいな』と、店の方針に合わないことが多かったんですよね。なので、就職活動は難航していました」
両者の言い分はもっともで、平行線になってしまうのも理解できます。ただその中で、唯一夢を認め、応援してくれたのは北海道石狩市に本店を置き、札幌市内で2店舗を展開する「徳光珈琲」の徳光社長でした。
「直接その夢に対して何か言葉をもらったわけではないですが、徳光社長自身もコーヒー専門店を経てお店を開いてるので、きっと何か想うところがあったのではないかなと思っています。徳光珈琲に僕が32歳の時に入社し、札幌市内の店舗に勤務。最初はコーヒーカップなどの食器洗いからスタートしました」
それから、接客やメニューの説明など一通り業務を覚え、2年たったある日。石川さんはついにコーヒーを淹れるドリップを担当します。
「やっとコーヒーを淹れることができると思いましたね。お客さまに、コーヒーの味をちゃんと届けようと、カップに注いだ後にコーヒーサーバーに少し残るコーヒーを試飲し、毎回味を確かめてから提供していました。自分が納得できるものじゃないと、きっとお客さまにも美味しいと思ってもらえないだろうと考えていたので、この作業は今も欠かさずに続けています」
徳光珈琲で、ドリップを担当できることになった石川さんは、よりコーヒーの知識を高めようと札幌市内のカフェやコーヒー専門店を休日に巡るようになりました。他店のコーヒーを知ることで、「自分の理想の一杯を淹れてみたい」と、より強く思うようになり、行動に移します。
「『そろそろ独立に向けて準備しよう』と、動きだしました。資金面でも、開業資金をちゃんと貯めたかったので、徳光社長に『開業資金を貯めるために、副業してもいいですか?』と確認をとり、ラーメン屋でアルバイトを始めました」
日中は徳光珈琲でコーヒーを淹れ、夜はラーメン屋でアルバイトをする生活を始め、石川さんは開業資金を順調に貯めていきます。
「体力的には、かなりキツかったですけどね(笑)。でも今動かないと、きっといつまでも自分の店は持てないだろうなって。開業資金が少しずつ貯まってきたのを見て、自分のコーヒーの腕前も試してみようと、栗山町の雨煙別(うえんべつ)という場所で行われる音楽フェスに初めて自分のお店を出店しました」
栗山町で見た、希望の行列。
出店が決まり、提出書類の店名を記すところには「ブンナ・タッタ」という名前が。石川さんは、「ブンナ・タッタ」というエチオピアの公用語を店名として命名しました。「ブンナ」はコーヒー、「タッタ」は飲む、という意味があるそうです。
石川さんはエチオピアのフルーティーな豆のコーヒーが好きだったので、美味しい豆の原産地の言葉からとったと教えてくれました。
イベントが盛況に終わったことで、石川さんは「自分で淹れたコーヒーを提供できるし、少しでも利益がプラスになるのであれば、開業資金にもなるかも...」と考えました。そこで、徳光珈琲とラーメン屋のダブルワークをこなしながら、休みの日はイベント出店を行うことにします。
「トリプルワークになりました(笑)。だけど、イベント出店をすることで夢に近づいているのを感じることができたので、そこまで辛いとは思いませんでしたよ。1年半くらいそんな生活を続けて、開業資金と経験値を積んでいった感じですね」
そうして、栗山町のイベントに何回か参加していくうちに、石川さんはある光景を目にします。
「栗山町には、『大鵬(たいほう)』というラーメン屋さんがあるんですけど、このお店はすごく人気でいつも行列が絶えないんですよね。札幌などの町外からも、ひっきりなしにお客さまが訪れる様子を見て、『栗山町は、いいお店であれば札幌からも集客できる立地なんだ』と、直感で感じたんですよね」
確かに札幌から車であれば1時間程度で栗山町には到着し、新千歳空港にも同様の時間で移動することができます。主要都市を結ぶ都市間高速バスの停留所やJRもあるので、公共機関での移動も可能です。
「それから調べていくうちに、栗山町には品質管理された高品質なコーヒー豆を使用するスペシャルティコーヒー専門店がないとわかりました。これはもしかしてニーズがあるかもしれないと、栗山町でお店を開くことを真剣に考え始めます」
しかし、札幌にある徳光珈琲で働く石川さんからすると、馴染みのお客さまや住んでいる人が多い札幌で開業した方が有利なのではないかと感じてしまいますが...。
「札幌でお店を持つことは、全く考えていなかったですね。元々札幌はカフェも多いし、僕がわざわざお店を開かなくてもいいんじゃないかなって思っていました。実は僕がお店をやりたい場所の条件が唯一あって、コーヒー屋さんがほとんどない地域でお店を開きたかったんです」
石川さんは近い距離感でお客さまと関係を築ける土地に、自分のお店を開きたかったそうです。その地で望まれてコーヒーを淹れることができる喜びが、石川さんの原動力でした。
栗山町での出店を正式に決め、2024年3月に石川さんは6年お世話になった徳光珈琲を退職しました。
のんびりと、コーヒーと共に人生を楽しむ。
徳光珈琲退職後、すぐに札幌の家を引き払い2024年4月に栗山町に移住。石川さんの心境に変化はあったのでしょうか。
「まずはなんといっても移動時間がなくなったのが、嬉しいです。今までは札幌から栗山町にイベントやその準備で往復2時間かかっていたので、この時間がなくなっただけでも生活に余裕がでてきましたね。あと夜のラーメン屋のアルバイトも辞めたので、健康的な生活を送っているなと思っています」
移住後に栗山町内でお店を持つ場所も決まり、今は店内レイアウトを考えているそうです。開業まではもう少しかかりそうと踏み、今は週に1から2回ほど、栗山町民が交流する際に活用される施設「栗山煉瓦創庫(れんがそうこ)くりふと」で、コーヒーを販売しているといいます。
キャンプ利用者に手軽にスペシャルティコーヒーを楽しんでいただけるようコーヒーバッグを作成。
「町民の方が『コーヒーを買いに来たよ』と、気軽に来てくれるんですよ。自分が淹れたコーヒーを美味しく飲んでくれる表情が好きで、『移住してよかったな』と思っています。そうそう、『栗山煉瓦創庫(れんがそうこ)くりふと』へ定期的な出店が決まってから、このカップを揃えたんですよ」
と、見せてくれたカップは色とりどりで、美しい色ばかり。全15種類あるそうで、コーヒーを淹れるバリスタたちから絶大な信頼と人気があるORIGAMI(おりがみ)というメーカーの品物です。
「僕が選んだ形はカプチーノカップ(6オンス)といって、保温性に優れていて、香りを楽しめる形なんです。コーヒーは冷めていくと酸味が強くなり、酸っぱく感じることが多いんですよね。それを少しでも遅らせてゆっくりと味わってもらいたいため、この形を選びました」
バリスタの願いから生まれたというマグ&カップブランド「ORIGAMI」。多彩なマグ&カップが並びます。
単色ではなく色がたくさんあることにも、石川さんのこだわりがあります。
「その日のお客さまの雰囲気を見て、カップの色を決めています。『この前は赤色だったから、今日は黄色にしよう』というシンプルなものもありますし、『なんとなく元気がないからオレンジ色のカップで、少しでも元気を出してもらえないかな』など、心の中でいろいろ考えています。実はお客さまからも好評で、『今日は何色のカップかな?』と声をかけてもらうことも多いんですよ」
なじみのお客さまも増え、開業を待ちわびる声もある中、これからやりたいことを石川さんに聞きました。
「ブンナ・タッタ」のロゴも石川さんが手がけているそうです。マルチな才能をお持ちです。
「まわりに助けてもらいながら、少しずつ進めている店舗準備をまずは頑張りたいですね。あと栗山町で陶芸をしている方がいるので、その方に相談して、自分で『ブンナ・タッタ』で使用するコーヒーカップを作ってみたいなと考えています。『自分で作ったコーヒーカップにコーヒーを淹れて、お客さまに提供する』...それってすごく面白そうじゃないですか?」
そう話す石川さんの表情は輝いています。他にも聞いてみると...
「実は栗山町に住んでからまだどこにも行けていないので、これからいろいろなところを回りたいなと思っています。今まで忙しかった分、自然に触れながらのんびりしたいですね。今後、開業準備で一時的に忙しくなるとは思いますが、お店がオープンした後はゆったりと営業できるんじゃないかなと、栗山町を流れる空気や時間の流れがそう思わせてくれます」
取材の始めは、寡黙な印象だった石川さん。でも取材がスタートすると、気さくにお話をしてくれました。コーヒーへの想いやカップの意味など、私たち取材班が疑問に思ったことに真摯に向き合ってくれていたのが印象的でしたね。お店がオープンしたら、またゆっくりとお話を伺いながら、のんびりと石川さんのコーヒーを味わいたいと思っています。
- スペシャルティコーヒー専門店ブンナ・タッタ
- 住所
北海道夕張郡栗山町中央3丁目154-1(栗山煉瓦倉庫くりふと内)
- URL
Instagram【https://www.instagram.com/buna.teta.coffee.roasters/?hl=ja】
オンラインショップ【https://bunateta-coffee.stores.jp】