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札幌市

愛したものを広める面白さ!ロッカーが数の子おじさんになるまで20230413

愛したものを広める面白さ!ロッカーが数の子おじさんになるまで

バッテラと言えば、みなさん思い浮かべるのは、サバでしょうか?
でも北海道には、なんと、ニシンのバッテラが存在します!商品名は「二三一(ふみいち)バッテラ」。
北海道産ニシンと、独自の味付け数の子を贅沢に使った、豪華な親子押し寿司です。
シャリに混ぜ込まれた、ガリと白ごまも良い仕事をして、一切れ食べれば、手が止まらなくなる美味しさです。

これを開発したのは、札幌駅前のビルに入る「海鮮酒蔵 二三一(ふみいち)」の料理長さん。すし職人でもあります。
そして、これを販売するのが、今日の主役、数の子おじさん、こと中島晋次郎さん。
お名前を知らなくても、ウクレレにのった数の子の歌は聞いたことがある!という人も少なくないのではないでしょうか?
プロのミュージシャンでもある中島さんに対して、大変失礼なのは承知の上ですが、とにかく、「歌がうまい!!」
最初にその歌声を聞いたときは、あまりのうまさに編集部一同のけぞりました(笑)

そんな中島さんが、歌と同じように愛してやまない、数の子。
いったい、どんなふうに出会い、数の子おじさんとなるに至ったのか!?

じっくりと聞いていきましょう。

東京生まれ東京育ちのアメリカ大好き青年

中島さんが、生まれ育ったのは、東京都板橋区。今でこそ、都心へのアクセスに便利な場所として、マンションや住宅が建ち並びますが、昭和40年代の頃はまだ、畑の多い静かな郊外といった場所でした。

「両親は、ともに東北の出身で、就職のタイミングで上京。まさに、オールウェイズ3丁目の夕日の世界ですよ」と、映画を例えに説明してくれる中島さん。

kazunokoojisan17.JPGこちらが、数の子おじさんこと中島晋次郎さん
学生時代は、マラソンに熱中したそうです。その後、走る側から、マラソンシューズを提供する側として、スニーカーを扱う会社に就職すると、どんどんとスニーカーの魅力にはまっていきます。
メーカーでの営業を経て、アメ横でスニーカーのショップを任されるようになると、売るだけではなく、ファッション誌に原稿を寄せたり、アメリカで発売されたばかりのスニーカーを輸入して流行をつくりだすなど、どんどんやりがいと面白さを見いだしていきました。まさに世はアメカジ流行まっただ中。

「映画がきっかけだと思うんだけど、とにかくアメリカの文化が大好きで。そういうのをしかけるというか、広められるのも楽しかったね」

さらに90年代後半になると、今度は渋カジブームがやってきます。

「このあたりまでが一番面白かったかな。その面白さに疑問符が付くようになってきたのは32歳の頃。自分も30歳を過ぎて、機能性ではなく、見た目やおしゃれさだけで、ものを売るのがきつくなってきた、という感じですかね」

ファッション業界から、日本の台所、築地市場へ

そのタイミングで、実は以前から誘われていた、別の仕事を真剣に考え始めます。

「近所に、築地で仲卸をやっている社長がいて。その人から、おまえは何をやってるんだ!男は30歳にもなったら、仕事をがんばって家を建てなきゃだめだ!だからウチで仕事しろ!って言われてて(笑)。ちょっと古い考えかもしれないけど、子どもも小さいのに、飲み歩いて夜型の生活してる僕を心配してくれたんでしょうね。でも、また一から始めて何かを極めるのは悪くないなって思いましたね」

そうして飛び込んだ、築地市場という未知の世界は、想像以上の厳しさだったそう。

「最初は、軽子って言って、魚を運ぶ仕事。競り落とされた商品をお客さんのトラックまで運んだり、とにかく市場の中を動きまわってました。まあ、怒鳴られるのも珍しくないし、最初の半年間は、はい、とすいません、しか言えなかった(笑)」

それまで、バンド活動とショップの仕事とお酒の完全夜型人間だった中島さんにとって、昼夜逆転した上に、その環境では、さぞつらかったのではと思いきや、「とても面白かった」のだそう。

「師匠がくれた、『どんなバックボーンの人間でも、築地で一種類の魚を極めれば、一生喰っていけるぞ』っていう言葉が自分を押してくれました。厳しいけど素晴らしい師匠に出会えましたね」

kazunokoojisan16.JPG
「はい」、と「すみません」しか言えなかった、中島さんは、大卸(おおおろし/市場にさかなを集める人)のもとに、連日出向き、いやがられるほどの質問攻めにして、少しづつ知識と経験を積んでいきました。優れた目利きになるには、何よりも経験です。

軽子から仲買人に昇格。数の子と出会う

こうして1年がたつ頃には、仲買人に昇格。自らの目利きで魚を買い付けするようになります。
中島さんが入った会社は、北洋物といって、主に鮭や魚卵を扱う卸業者でしたので、当然、中島さんの担当は、数の子、イクラ、珍味など、ということになりました。日々、それらの商品と向き合う中で、出会ったのが、「子持ちコンブ」でした。

今でこそ、子持ちコンブはおせちの定番としても馴染みがありますが、実は、2000年当時は、まだまだ珍しいものでした。
アラスカの原住民が保存食として食べていたものを、何とか商材にできないかと考えた日本の商社が開発し、日本に持ち込んだのだそう。

kazunokoojisan20.jpgお酒のおつまみにもぴったり、子持ちコンブ
それに中島さんも目を付けました。
ニシンがコンブに卵を産み付けるという自然の摂理によってできる食材なのも面白いし、調べてみると、EPAやDHAが豊富で、とっても栄養があるし、実に興味深い食材なのでした。そして、何よりも、美味しいのです。

「銀座の有名な高級寿司店などに紹介して、使いやすいように加工して卸していきました。まだ、世に出てないから、この過程もすごく楽しくて。この子持ちコンブがきっかけでしたが、ニシンの子って、素晴らしい食材なのに、プリン体が多い、とか色々誤解も多いことを知って。よし!それなら、自分が誰よりも詳しいニシンの子のプロになるぞって思いましたね」

極めるべき、対象が見つかった瞬間でした。

この仕事が天職

「自分はものを作り出すことはできないけど、人や自然がつくったものの素晴らしさを伝えると止まらないんだよ」と本人が言うように、自分の眼力で良いモノをチョイスして、世に広める楽しさ、とでもいうものが、中島さんの原動力なのかもしれません。
きっと、スニーカーでも、数の子でも、対象は変わっても、その情熱は同じなのです。

kazunokoojisan12.JPGこの日は、製造所でもある札幌の販売店で取材。ひっきりなしにお客さんが訪れる合間をぬって撮影を
「ニシンは2~4月に産卵するから、そこで一番いいものを1年分、一気に買わなきゃならない。当然、仕入れたら売らなきゃならない!その緊張感とか、スピード感がたまらない、ビリビリする」

やりがいを、そのように表現してくれました。

そんな、熱量で仕事をするうちに、当然ながら、名前が売れます。
「子持ちコンブと言えば、数の子と言えば、中島!」
10年もたつころには、界隈ではすっかりそんな存在になっていました。

ところが!別の会社からの引き合いも増えたり、取り扱う量が増えるなど、色々な変化はありつつも充実した日々を過ごしていたある日、青天の霹靂ともいうべき出来事がおこります。
人生を変えた場所であり、仕事場所であり、日常であり、これからもずっと過ごすはずだった築地市場が、何と移転して屋内市場になるというのです。

移転にはもちろん色々な理由があり、関わる人の立場によって賛成も反対もありましたが、少なくとも中島さんにとっては、それは歓迎できるものではありませんでした。多くは語りませんでしたが

「オープンエアじゃない、箱物に勤めるのがいやだったんだよね~」と、にやっと笑った顔が印象的でした。

kazunokoojisan22.JPG今は無き築地市場での1枚

築地が移転するのをきっかけに人生を見直し

恐らく、築地が築地でなくなるとなった瞬間に、中島さんは、次の人生を考えたのかもしれません。

「実は奥さんと結婚するときに、若いうちは家は建てないよ、って宣言してました。30代と60代では、きっと住みたい場所も変わるだろうから」

折しも、57年ぶりに東京で開催される世界的なスポーツの祭典の開催時期がせまっていました。当時、中島さんは豊洲エリアに住んでいたそうで、築地が無くなるなら、その祭典の準備がはじまって、湾岸一帯が厳戒態勢になる前に、脱出しよう!と思ったのだそう。

「50代になって、そろそろ家を決めてもいいかなというタイミングだったしね」

実は、二人には、移住するなら絶対ここ!と決めていた場所がありました。沖縄県の宮古島です。
ミュージシャン仲間の影響で始めたウクレレが縁で、宮古島出身ミュージシャンたちとのおつきあいがあった中島さんは、宮古島の魅力にどっぷりとはまっていたのでした。

kazunokoojisan18.JPG愛用のウクレレ。装飾は北海道仕様

「奥さんも大賛成だし、もう、絶対宮古島に住むって思ってたね」

ところが。いざ、宮古島に行って、これから住むマンションの段取りまでつけたのに、家賃高騰、材料費の高騰などが重なり、予定のマンションが建たなくなるという想定外の事態に。それが2019年の頃でした。

数の子の歌「数の子なんの子」誕生!

途方にくれる中島さんでしたが、救ってくれたのは、やはり音楽でした。
ちょっと話を戻して、あの、数の子の歌が生まれた経緯を、この辺でうかがってみましょう。

「音楽仲間でウクレレ教室始めたやつがいて。今は有名になっちゃったんだけど。飲む度に、『築地で15年も数の子売ってて、なんで、その歌を歌わないんだっ!』って言われてて。僕はロッカーだから、そんなのつくれないって言ってたんだけど、ある日、『50過ぎたおっさのラブソングなんて誰も聞きたくないんだよ!!』という売り言葉に買い言葉で、おー、それならつくってやる!数の子の歌、ってなった(笑)」。

まさかの、けんか、、いえ、お友達の激によって、恐らく日本初、数の子をテーマにした楽曲「数の子なんの子」は誕生したのでした。いきおいでできたとは言え、中島さんの、数の子への愛がつまったこの歌、実際に聴いた仲間たちからは大好評。

「すごい良い歌だから、数の子屋の社長に送ってみろって言われて。取引先でかわいがってくれてた、今の会社の社長と、道内のもうひとつの会社の社長に送ったら、あれよあれよという間に、北海道水産物加工協同組合連合会(通称:加工連)のキャンペーンソングになり、そこから販売までしてもらえることになりました」

kazunokoojisan7.JPG高音なのに、力強くとってもパワフルな歌声に魅了されます
最初にこの歌をつくることを薦めてくれた友達や、仲間たちによってプロデュースされ、ついに中島さん作詞作曲、「数の子なんの子」は世に出るのでした。さらに、「数の子なんのこ ニシンの子~.....」、の一度聞いたら忘れられない歌詞と、明るくて軽快なメロディーは、子どもたちにも大人気で、名古屋の小学生からお手紙をもらったことをきっかけに、「いただきますの歌」という、食育の歌作成にもつながっていきました。

こうして、魚河岸おじさんと名乗っていたロッカーの中島さんは、ウクレレを抱えた数の子おじさんとして、食育アーティストの道も歩みはじめたのでした。

新天地北海道へ

さて、宮古島移住にストップがかかったところに話を戻しましょう。

「実は、毎年北海道に数の子の歌を歌いに来てたんだよね、5/5が数の子の日だから。千歳空港と留萌で毎年歌ってた。その時に、空港から送り迎えしてくれてたのが、今の会社の上司。その車中で、実は宮古島だめになって、という話をしたら、だったらとりあえず2年だけうちに来れば?って」

実は、「数の子なんの子」を出して以来、それを歌う数の子おじさんは、数の子の産地である北海道で、ひっぱりだこになっていたのです。思わぬ誘いでしたが、中島さんにとっては、渡りに船でした。

「いずれは宮古島に住みたいけど、でも、札幌も一度住んでみたい場所だったからね」

想定外ではありましたが、結果的にまたワクワクする場所へとたどり着きました。音楽をやっていなければ、きっと、これらの出会いは無かったはずです。

kazunokoojisan21.JPG数の子をモチーフにした留萌市のゆるキャラ「KAZUMOちゃん」とも、色々なイベントに出演
さて、札幌に来た中島さん、会社の経営する複数の飲食店の他、目玉商品である「二三一バッテラ」の販売を任されます。上司の希望としては、中島さんがウクレレを持って売り場に立つことです。数の子おじさんである中島さん自体がアイコンとなるように。でも最初は少し乗り気じゃ無かったそうです。
「ギター持ってロックを歌う自分が、正直、ウクレレで人前で歌うのは、どうかと思ってね」
でも、「あ、その歌知ってる!」と声をかけてくれる人や、子どもたちの反応を見て、気持ちが変わっていったそう。
札幌で知り合った若いミュージシャンたちの、「札幌で「数の子なんの子」を歌わなきゃダメだよっ!せっかくヒット曲があるのに歌わなきゃ!」と言う言葉にも刺激を受けたとか。

「そうだよな、僕がウクレレ持って立って、数の子!二三一バッテラ!って認識してもらえればいいんだよな。と思い直して、積極的に前に出るようにして。そしたら、最初は変な顔してたバイヤーさんとかも、だんだん面白がってくれるようになって、テレビとか、取材とかも来るようになって。北海道のいろんな人に、応援してもらえるようになってきた。でもね、そもそも、商品がいいんだよ!そこに、「数の子なんの子」がばっちりはまったって感じ」

kazunokoojisan1.jpg「二三一バッテラ」は札幌市北区屯田の製造所と、道の駅石狩 あいろーど厚田と、北広島市に誕生したエスコンフィールドで買えます

あくまで、歌よりも、数の子商品、「二三一バッテラ」を推す中島さん。
ちなみに、「二三一バッテラ」を語らせると、このようになります。
「一切れのバランスが絶妙!ニシンとシャリと数の子が口の中で一緒になって、シャリがほろほろほどけるけど、数の子は噛まなきゃならない。噛むことでまた、シャリの甘みとニシンの脂もしみ出して、全部が一体になる!本当に美味しい。これは、きっと、開発した料理長が、噛むことを大事にして、計算した意図だと思うよ!」

お見事!どれだけ商品を素晴らしいと思っているかが伝わって来ます。

「結局、ぼくは、この良さを知ってほしいんだ。それが一番」

北海道で生まれた商品や食材を、そんなに好きになってもらえて、なおかつ、ウクレレを抱えた数の子おじさんとして活躍の場が広がったならば、北海道民としてはとっても嬉しい気がしました。

ところで、ギターとウクレレはそんなに違うのか?、と、音楽素人の筆者が質問すると、中島さんは、「全く違うんだ」と力を込めました。
「子どもさんの前でギター持って出ちゃだめなんだよ。あ、この人、今から歌うんだって構えちゃう。ケースからギターを出す、構える、音を合わせる、って一連の作業が、身構えさせちゃう。それがウクレレだと、ぱっと手に持って、すぐに演奏できる。音がやわらかいから、子どもさんもびっくりしない。顔も、自然にゆるむ。ギターだとびっくりしちゃうからね」

そうした体験から、中島さんは、子どもたちを対象にしたときや、食育活動の際は、全部ウクレレでやろうと決めたのだそう。
でも、決してロックの魂を忘れたわけではありません。

「数の子なんの子、実はメロディラインがすごくロックなんだよー。Bメロの部分良く聞いてみて!(笑)」とのこと。皆さん是非ご確認ください!

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数の子おじさんのこれから

さて、数の子おじさんは、これから、どこへ向かうのか。
最後に、これからやってみたいこと、を教えてもらいました。

「まずは、高級品のイメージの数の子を、普段づかいしてもらえるタコのようなポジションにしたいね。それと食育も続けて行きたい。子どもたちには、栄養があるから食べなきゃだめ、ではなく、単純に美味しいから食べるってなって欲しい。魚とか野菜を食べることが苦にならない人になって欲しいね。その為にも美味しいものを知って欲しい!特に北海道は魚はもちろんだけど、野菜もびっくりするくらい美味しいからね。その為にも、八百屋さん、料理人さん、スーパー、魚屋さん、など関係する人たち全部一緒になっての食育をやりたいね」

数の子おじさんのパワーを持ってすれば、その素敵な目標が叶うのも、遠くない気がします。
さらに、こんな希望も教えてくれました。

「数の子とか、道産の食材だけで、フェスみたいなのをやってみたい!こんなに北海道のものは、美味しいんだよ!ってのを伝えるお祭りみたいなのをやりたいね」

自分の良いと思ったものを紹介するプロの中島さんの手にかかったとき、それらの食材がどのように輝くのか、是非とも実現して欲しいと思います。

kazunokoojisan23.JPG
数の子を追い続けたことで、数の子の歌が生まれて、いろんな人に出会って、今に繋がる。そんな中島さんの

「軸が一本あれば、そこの枝葉ってのは自分でどうにでも広げていける」

という言葉がとても印象的でした。
(終)

それでは、お待たせしました、「数の子なんの子」是非、リンクからお聞きください!!
歌詞はこちら(一部抜粋)

作詞 作曲/しんじろう

数の子なんの子 ニシンの子
意外に知らない ニシンの子
かずって魚は いないのよ
おぼえておいてね

血液サラサラ 脳は活性化
プリン体は少ないよ! 誤解しないでね
あなたの健康が心配だから
毎日少しずつ 数の子食べてよ

数の子なんの子 ニシンの子
意外に知らない ニシンの子
かずって魚は いないのよ
おぼえておいてね

正月だけじゃなく ふだんの食事に
数の子食べてくれると おじさんうれしいな〜
みんなの笑顔が見たいから
毎日少しずつ 数の子食べてよ

関連動画

数の子おじさん(中島晋次郎さん)二三一バッテラ製造所(しめ二株式会社)
数の子おじさん(中島晋次郎さん)
二三一バッテラ製造所(しめ二株式会社)
住所

札幌市北区屯田5条5丁目1-2

URL

https://www.fumiichi.com/ishikari/

中島さんのロックミュージシャンとしての活動も是非ご覧下さい!

しんじろう


愛したものを広める面白さ!ロッカーが数の子おじさんになるまで

この記事は2023年3月29日時点(取材時)の情報に基づいて構成されています。自治体や取材先の事情により、記事の内容が現在の状況と異なる場合もございますので予めご了承ください。