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深川市

80歳代のご夫婦から、まだ見ぬ誰かにご提案。20210218

この記事は2021年2月18日に公開した情報です。

80歳代のご夫婦から、まだ見ぬ誰かにご提案。

「後継者問題」

経営者家族のみなさんだけでなく、多くの人が昔から聞くワードかもしれません。当サイトを運営する「くらしごと編集部」も北海道内のさまざまな場所で、この問題を聞くことがここ最近さらに増えてきています。地域のために、なんとか少しでも会社やお店が存続していく方法はないだろうかと考え続けてきました。その問題に少し切り込んだのが今回のお話し。80歳代のご夫婦から聞いたお話をお届けします。

お話しの舞台は北海道深川市。旭川の左下に位置するそのまちは、北空知エリアの中核都市。2万人ほどの人が暮らす、農業が基幹産業の田園風景豊かなまちです。30万人以上が暮らす北海道第2の大都市旭川にも車で30〜40分で行けるアクセス、1時間ほどの距離にある旭川空港から東京への行き来も便利。ほどよい田舎暮らしと生活の便利さのバランスを求める移住希望者にも注目が高まっている場所です。

ochiaisan-23.JPG夏の深川市。音江方面から撮影

大正7年(1918年)に深川村として誕生し、その後、今から60年近く昔の昭和38年(1963年)に周辺の4町村が合併して深川市となったのがこのまちの歴史。昭和7年(1932年)にこの地域で生を受け、深川市の発展のために尽力してきた方が今回のお話しの主人公、落合隆夫さんです。2021年現在、間もなく89歳を迎えるという落合さん。実は今、落合さんが築き上げた(株)落合鉄工という会社の工場を活用してくれる後継者を探しています。奥様と共に優しい笑顔で取材陣を迎え入れてくれましたので、これまでのことや、後継者を探すことになった経緯などを聞いてみます。

結論からになりますが「落合さんの意思を引き継いで、事業にチャレンジしてみたい!興味ある!」という方が現れたら嬉しいなと思います。「鉄工所」ではありますが、必ずしも鉄工を事業としてしなくてもいいそうですので、この工場や立地に興味がある方や、移住や転職を考えている方にも知ってもらいたい、そして人生の先輩として、経営者として学ぶべきこともたくさんお話しもたくさんいただきました。落合さんの想いや生き様をここに刻みたいと思います。

お話しを聞きに冬の深川へ。落合さんの生い立ち。

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札幌から道央自動車道(高速道路)で走ること1時間半ほど。深川留萌自動車道の深川西インターチェンジから車で2〜3分、コンビニや病院、飲食店や高校なども建ち並ぶ深川市の中心部を横断する47号線という大きな幹線道路沿いに落合鉄工さんの工場はありました。JR深川駅からも車で8分という場所です。

「どうぞ、どうぞ、座って座って」とご案内いただき、開口一番に「耳がかなり遠くなっててね、少し大きな声で話してくれたら嬉しいんだよね」と落合さん。横に座る奥様から「最近は私が通訳みたいになってるんですよね(笑)。90歳も近いのにカラダに痛いところ1つないんですから!病院にかかってないから、かかりつけのお医者さんがいないのが今の悩みなんですよ(笑)」とすかさずフォローが入ります。その掛け合いを見ただけで、なんとなくこれまでご夫婦で良いことも大変なことも、共に歩みながらここまで来たんだなということがわかりました。

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まず始めに落合さん御自身の生い立ちについて聞いてみます。

「昭和20年(1945年・落合さんが当時13歳)の終戦からしばらくのころ、とにかく勉強が嫌いでね(笑)。勉強なんて一切しないで土管をつくる仕事をしていたよ。畑をどんどん広げるために必要だったんですよ。そのころの深川は『構造改善』が活発で、とにかく農業の発展を地域全体で目指していた感じだったんだよ。構造改善については、ここの空知地域は日本全国でみてもものすごく早くに取り組んでいたんじゃないかな」。

落合さんのお話するなかで時折「構造改善」というキーワードがでてきます。これは、昭和36年(1961年)に政府から制定された農業基本法の主要な柱の1つである「農業構造改善事業」のことを指しています。農業の経営規模の拡大を通じて、生産性を高めて農家さんの所得向上を図ることを目的としていたそうです。機械化の推進、農業基盤や環境の整備が行政主導でどんどん行われていたので、もちろんそれに付随する仕事が増えていったのは容易に想像できます。

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その後、土管作りから縁あって鉄工所の雇われの身になった落合さん。そこで鉄工に関わる技術を身につけていきますが、そこを離れ、御自身で鉄工所を開設した経緯をこう教えてくれます。

「当時は石炭を掘る炭鉱の閉山がものすごく多くて。ここの近くでも芦別市(深川市から右下に位置する都市)の炭鉱が閉山するからって、多くの炭鉱労働者のみなさんが、鉄工所に働きに入ってきてくれたんだよ。僕はそのころ職長という管理する立場で、新しく入ってきた人たちに技術を教えたりしてたんだけど、世の中は農業を拡大していこうっていう風潮がさらに広がっていたし、自分の力でやってみたいっていう気持ちが高まっちゃって、会社を飛び出したっていうのが最初だよ」

ochiaisan-26.jpg見せていただいた昔のアルバム

最近は、北海道の過去の歴史として炭鉱のことが語られますが、落合さんはまさにその炭鉱が数多くあった時代を肌で感じてきた方。ゴールドラッシュのように各地で炭鉱が掘られ、それが衰退していくと同時に、そこで働いていた多くの方々がさまざまな業界に転職していった時期なのです。世の中の産業が大きく変わってきた時に、落合さんもまた自分のチャレンジに賭けたひとりだったのです。

落合鉄工の創業

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落合鉄工としてスタートしてからのお話しを聞いてみます。

「昭和40年(1965年)に操業を始めたんだけど、ポンプのシャフトだったり、自動車のクランクシャフトをつくったり、カメラの部品なんかもつくったりしてたよ。そのころはこの地域にもたくさん鉄工所があって、それぞれが一般の工務店さんと取引してたのさ。僕は最初から諸先輩方が経営している鉄工所の邪魔をしたくなかったから、その仕事を奪うようことをしないようにって心がけてたよ。だから行政の仕事メインでやろうって。それでウチの製品の主力になったのが『水門』。その水門の設計から製造がこの工場の歴史といっていいくらいの業務になったよ」

「水門」というと、読んで字の如く、水流を止めたり開いたりすることで調整する弁のこと。河川や水路から枝分かれする農業用水路に取り付けられ、水稲栽培(お米)に必要な水を確保し、農業を発展させるためには絶対に必要なものでした。

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水門を製造していく上での苦労は、普段、気にも留めない私たちもなるほどなと納得するお話しでした。

「水門って、見えてる部分だけじゃなくて、もちろん水に浸かっている部分がたくさんあって、錆(サビ)との戦いだったのさ。他の業者がつくった当時のものだと、早かったら1週間くらいで錆びちゃって、ボロボロになってたんだけど、ウチでは水に耐えられる塗装して耐久性高めてって感じでつくっていたんだよね。深川ではどこも取り入れてなかったサンドブラストっていう金属の表面に砂のような研磨材を高圧で吹き付けて下地処理するっていう作業を取り入れたりもしたよ。ところが時代が進むにつれて、塗料は水に染み出すからダメってなって、メッキ加工が主流になってそれも取り入れたの。それもまた時代が流れて、メッキの加工にも亜鉛を使っているし、公害に繋がる可能性が少なからずあるからって、今はステンレスで製造するようになってきてるんだよね。水や錆との戦いだったはずが、今や環境問題に合わせた技術の習得みたいになっていったんだ」

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環境問題は大事というのは私たちも当たり前のように感じていますが、大きなメーカーであればその対応がたやすくても、中小の工場では、そのために事業のスタイルを変えていかないといけない、使えていた技術や加工用機械が使えなくなるというモノ作りの現場の苦労があったことも忘れてはいけないのかもしれません。

こんなことも教えてくれました。

「CAD(コンピュータによる設計)を取り入れたのも、この地域ではいち早く取り組んだよ。ここらへんの土木関係のコンサルタントが取り入れるよりも早かったね。深川では1番だったかもしれないな。昔は1年に200枚も300枚も図面書いたりしてたんだけど、図面を書いたからって1円にもならないのさ。僕らの会社は製品をつくる会社だからね。だから図面を書く会社をつくれば?なんて言われたこともあったね(笑)。そのころのコンピュータなんて遅くて遅くて(笑)。インターネットもまだ始まったばかりで電話代がものすごく掛かるの(笑)。印刷もパタパタと折られながら紙がでてくるなんて、今の人には、わからないよね(笑)」

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落合さんの仕事のモットーややりがいについても尋ねてみました。

「『改良』だね。ちょっとでいいから改良していくこと...それがこれまでの人生でのモットーかな。なんかね、人が『四角くつくれ!』って言うのに『丸くつくりたい』タイプなんだよね(笑)。大手じゃないんだから、勝負の仕方が違ってて、落合さんだからって言われたいからね。どんなものでも臨機応変に改善していきたいでしょ。これまで使っていた部材を強度ギリギリまで薄くできたら、安くもできるし。このあたりは図面通りにつくる会社じゃなくて、設計からしてたからわかることでもあるんだけど」

規格通りにつくったら危ないからって、部材の角を削って丸くしたりなどもしていたそうですが、図面通りにつくってください!と怒られたことも1度や2度ではなかったそう。世の中のルールと、少しでもいいものをつくりたい職人の心との狭間にも、自分のなかでどこか折り合いをつけながら進んできた人生だったんだろうなと想像します。

会社を閉める決断はウインドウズ!?

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その他にも、水流を活用した可動部分を開発したり、ソーラーパネルを設置した電装部分をつけたり、さまざまな最先端なチャレンジや、新しい製品の設計などで、特許をとれるくらいの開発をしてきましたが、特許をとってしまうと同じモノを周りの鉄工所でつくれなくなるからとお願いされて、特許をほとんど取らずに開発してきたことなども教えてくれました。市から表彰されたこともあったそうですが、新聞社とかは呼ばないで!目立ちたくないからとお願いしたこと、全国いろんな業者さんが見学にきたことや、奥尻島にも製品を納めるのにトラック2台で行ったことなんかもお話しいただきました。また、昭和62年に当時あった1,000坪ほどの第二工場が全焼してしまったという驚くほど大変だったことも教えて下さいましたが、それも今となってはなんでもない苦労だったかのように落合さんご夫婦の優しい口調は変わりませんでした。

その第二工場の全焼という大変なことを乗り越えて、現在立地する平成元年に竣工した工場は、当時何もない土地だったそうですが、3回ほど買い足して、800坪程度の土地になりました。気がつけば、何もなかったこの地域は、住宅街がどんどんできてきて、住宅街の一部に工場があるような環境になったそうです。

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そんな時代の移り変わりや技術の向上、環境の変化なども乗り越えてきた落合鉄工さん。冒頭にも書いた通り、すでに2019年12月31日、その会社としての幕を下ろしました。現在は会社解散の処理も終わり、次世代にこの工場を活用してもらうための後継者を探しています。
そこについても詳しく聞いてみます。

会社を閉めようと思った最大の理由はとても意外なものでした。

「Windows7のサポート終了が決断の大きなポイントだったね」と落合さん。

ええっ!とその場にいた誰もが思ったのですが、こう続けます。
「Windows7がダメってなって、CADが動かなくなって、今さら工務店さんに行って設計部分をお願いしますっていうのもなぁって。環境問題についていくのが大変になったとかもあるから、全てではないにせよ、このことがキッカケで事業はここまでだなって思ったんだよね」

Microsoftが、Windows7のサポートを2020年1月14日で終了を発表し「新しいパソコン買わなくっちゃ、OSのバージョンを上げなくっちゃ」くらいの世の中の賑わいだったと記憶していましたが、まさかこんなところで影響があるとは思いもしませんでした。対応方法や新しい設備の導入などの選択肢もあったのかもしれませんが、落合さんにとってはとても大きな引き際のキッカケになったのでしょう。

世界からWindows7が終了すると共に、北海道の小さなまちの工場の灯がひとつ消えたのです。

次の世代への橋渡し

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大変失礼ながら、落合さんには後継者になる人がいなかったのでしょうか?お子さんは?従業員の方は?そこも聞いてみます。

「働いてくれていた従業員もいました。仕事もできる優秀なみなさんでしたよ。ただ、行政の仕事なので、僕がやっていた構造計算や申請手続きなどはできないしチャレンジもできないというので、引き継ぐことができなかった。子どもも3人いるんだけど、みんなそれぞれの道を歩いているので、引き継ぐという感じでもなかったんだよね」
少しだけ寂しそうな表情を見せた落合さんでしたが、どこか自らの決断は間違いではないと確信した清々しさも感じます。

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取材陣は工場や事務所を案内いただきました。第一印象は「これが使われていないのはもったいない」でした。さまざまな溶接機や鉄を加工する旋盤や断裁する機械、クレーンやサンドブラスター、加工用の素材などまでも一式揃ったままでした。事務所もしっかりしていて、水廻りなども使える状態。工場を閉めた後もかなり手入れされていたことがうかがえます。これらの工場や事務所、機材一式を後継に譲りたいというのが落合さんの希望です。

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「もし鉄工所としてやりたいならすぐに工場として使えるよ。高圧の電気も引っ張っているし、加工用機材一式もあるし。昔はたくさんこの地域にあった鉄工所もほとんどないから、競合も少ないし、この深川で鉄工所をやるって意味や価値は確実にあるよ。今でもなんとかつくってくれないかってお願いもあるくらいだし。だから鉄工関係の経験者とか、同業の会社の新たな工場や移転先としても活用できるのではないかと思う。でも鉄工所としてこの場所を活用しなくてもいいと思ってるので、どんな人でもどんな職業の人でも興味を持ってくれたら嬉しいな。この場所やこの建物を活用してくれる方に引き継ぎたいね」

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すでに土地建物や設備に関わる負債はなく、そういったものもひっくるめての後継ではなく、どちらかというと不動産売買や賃貸に近い感覚で考えられていた落合さん。ただ、これは取材陣も感じましたが、設備一式はもったいないので、それも活用できる方であれば、さらに価値が高まることは間違いないと思いました。ざっくりと金額的なものもうかがいましたが、取材陣の想像よりもはるかに安く、さらに魅力的に感じたのは言うまでもありません。

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鉄工所としてはわかりやすいですが、他に活用するのであれば、取材陣の勝手なイメージですが、事務所は人が集う交流の場所にして、工場は全天候型の何かを行う場所としても最適だと思いました。

事業として可能かどうかは調べないといけないことも多々あるかと思いますが、事務所だった場所を宿やゲストハウスに、高い屋根のかかった工場は全天候型のスポーツ施設(フットサルやバスケットコート、ボルダリングなどなど)にしたりなんかもアリだと思いました。中古車や農業用機械・キャンピングカーなどの展示場+事務所なんていうのは普通に可能でしょうし、鉄製品を軸に、ものづくりやアート製作のみなさんの共同製作所なんかも面白いかもしれません。東京をはじめとする首都圏で仕事をメインに持ち、それをこちらに持ってきながら副業的に何かを開業するにもピッタリな立地かもしれません。そのくらい、現地をみると夢が膨らむ場所でした。

ochiaisan-25.jpgお若いころの落合さんご夫婦のお写真

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最後に、この深川市という場所で事業をするということについての良さを落合さんに聞きました。

「もうずっと住んでるけど、本当に住み心地のいいまち。交通の便も良くて、旭川にも札幌にも近いし。なんていうのかな、水田の広がる風景があるまちっていいんだよ。平地で地震の活断層もないから、災害といえる災害なんてなかったしね。人口は減ってきてるんだけど、僕はいいまちだと思うよ。どんなことでもいいから、このまちとこんな鉄工所だった場所に、興味を持ったなら相談に来て欲しいね」

気をつけて帰るんだよと、子どもたちを見送るように、外にまで出て取材陣を送り出してくれた落合さんご夫婦。いまのようにモノが溢れ、便利な世の中とはほど遠い時代から、北海道の発展に尽力されてきたお二人。どうかそんな想いや歴史にも共感できるような人や企業と巡りあい、この「落合鉄工」の築いてきたものを引き継いでくれる後継者があらわれることを期待したいです。

旧)株式会社落合鉄工
住所

北海道深川市開西町2丁目3-1

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クラウド継業プラットフォーム「relay(リレイ)」(株式会社ライトライト)

0985-77-8046

https://relay.town/


80歳代のご夫婦から、まだ見ぬ誰かにご提案。

この記事は2021年2月4日時点(取材時)の情報に基づいて構成されています。自治体や取材先の事情により、記事の内容が現在の状況と異なる場合もございますので予めご了承ください。