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小樽市

世界へ飛びだした料理人が、故郷に創った理想の場所。20200622

この記事は2020年6月22日に公開した情報です。

世界へ飛びだした料理人が、故郷に創った理想の場所。

「石と鉄」

2つの素材を組み合わせたこの名前。どんなお店をイメージしますか?

建築やさん?資材やさん?
そんなイメージが真っ先に思い浮かぶでしょうか。

この名前を聞いたとき、まさか「食」がキーワードになっているとは全く思いもよりませんでした。
今回の舞台は、そんな斜め上をいくセンスをもつ中源博幸さんが作り上げたお店。

実はこのお店、カフェバーなのです。自慢の料理の腕をふるい、素材にこだわった料理や、それに合うお酒を提供しています。
そして2Fには宿泊設備を備え、いわゆる「ホステル」「ゲストハウス」に近い面も持ち合わせています。
ただ、中源さんは元々料理人であり、あくまでも宿泊業以上に飲食業に重点を置いているところが、ここならではの特徴かもしれません。

ishitotetsu023.JPG経営者の中源博幸さん

お店への並々ならぬこだわりや想いを伺うと、素敵なお店の魅力は、細部まで妥協せず徹底してお店のコンセプト、内装、食材・・・などにこだわりぬくことだったり、「自分のお店ならではの存在価値」を深く考え唯一無二を追求していることだと実感します。

そして中源さんの生き方が心を打つのは、東京や海外など様々な地で経験を積み色々なものを見てきた人が、故郷に戻り「自分の育った街を未来の若者が誇れる場所にしたい」という思いで、まっすぐに理想の場所を創り上げ、挑戦を続けているということなのです。

そのストーリーを少し覗いてみてください。

工業を学び続けた学生時代

気になるお店のご紹介の前に、まずは経営者の中源さんにこれまでのお話について伺います。

幼少期から学生時代まで、ずっと小樽市で約20年を過ごしたという生粋の小樽人であり、現在の仕事からみると意外な経歴をお持ちです。
高校時代は北海道小樽工業高等学校(現:北海道小樽未来創造高等学校※北海道小樽商業高等学校と統合)の電気科で学び、高校卒業後は北海道工業大学(現:北海道科学大学)に進学。専攻は情報ネットワーク工学科で、パソコン関係のことを学んでいたといいます。
一見、工業関係のお仕事でプロになるかと思われる経歴ですが、一体どこで「食」の道に進むことになったのでしょうか?
そのきっかけは、学生時代のアルバイトだったといいます。

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「家の近くにある焼肉店でアルバイトをしていて、お金を稼ぐことなのでもちろん辛いこともあったんですが、それ以上にすごく楽しくて。僕はキッチン担当だったんですが、皆でワイワイやって、自分の出した料理で人が喜んでくれるということにすごくやりがいを感じたんです。飲食店ってお客さんが喜んでくれている姿を直に見られて、自分がしたことへのレスポンスが早くていいなぁ、と。そこから飲食業の道に進もうかな、と思うようになりましたね」

方向性が決まった重要な一年 「大学3年生」

就職活動が本格的にはじまり、大学生なら多くの人がこれからの人生について真剣に考えるであろうこの時期に、中源さんの人生は大きく動き出します。

なんと、大学生にして自分のお店を作ってしまったのです。それも、遊びではなく、れっきとした商業施設で。

「飲食業で生きていこうと決めたんだから、だったらまず実際に店を出してみようと思ったんです。大学3年生の夏に友人と2人で立ち上げました。そのとき、おたる屋台村のテナントがたまたま空いていて、『あ、ここでやってみたいな』と思ったんです。学生がやってる小さい居酒屋という感じで、料理も焼きそばやザンギ(鶏の唐揚げ)など、簡単なものを出していました」

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もちろん本業は学業なので、日中は大学に通って、帰ってきて18時〜深夜1時くらいまで店を開ける生活。寝る時間がほとんど取れないのでは?と想像できる1日のスケジュールですが、このお店の営業日はなんと週6日。深夜家に帰って、寝て、学校へ行って・・・の繰り返しは相当ハードだったといいます。

「儲けはほとんどなかったです(笑)あと、最初は結構色んな人が来てくれましたが、料理のバリエーションにも限界があるので半年くらい経てばどうしても飽きが出てきたようで・・・お客さんが『友達や知り合いだけ』じゃ厳しいんだなと。7時間開けてるのにお客さんが一人しか来ない日もありました。でも厳しさを実感するとともに得たものもあって、人からいただいたお金ってすごく大切なものなんだなと実感することができましたね」

日本のトップを目指し、東京へ

そんな貴重な経験を経て挑んだ就職活動。「北海道だと何かあればすぐに小樽に帰れてしまう。飲食で食べていくなら、まず日本でトップのところへ行って色んなことを学び経験しよう」と思い選んだ就職先は、東京の大手飲食グループでした。
きっかり1カ月、と期間を設けて就職活動のために東京に滞在していましたが、奇しくも北海道に帰る3日前というタイミングで就職先の企業と運命の出会いを果たします。持ち前の行動力を発揮する中源さんは、企業説明会で「僕、3日後に帰るのですぐに面接してもらえませんか!」と、選考フローを飛ばして直談判。そして、見事に内定をもらいます。

その企業は、個性的な戦略を持っている会社でした。
「(入社当時)100店舗100業態、ひとつとして同じコンセプトの店舗を作らず、100種類のお店を展開するという目標を掲げている面白い会社でした。実は、応募する企業は『設立10年以下・従業員数50人以下の会社』という自分なりの基準を決めていました。理由は、これから成長する企業なら自分の裁量で色々なことに挑戦できそうですし、早く上に上がって幅広い経験をできるんじゃないかと思ったからです。実際、会社が大きくなる過程をみることができ、店舗展開の仕方なども勉強になりましたね」

入社後は調理をきわめる料理人(シェフ)になるか、店舗マネジメントをメインに行う店長になるか、選択を迫られますが、将来独立して自分のお店を経営したいと決めていた中源さんは「料理だけをきわめてもビジネスとしてお店を経営していくことは難しいだろうから、数字も勉強しなければ」と考え、店長でのキャリアを選びます。

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赤坂・五反田・渋谷・六本木・・・とそうそうたる立地にある店舗の店長を任されることになりますが、そこで中源さんは一つの壁に直面します。
在職中最後に店長をしていた六本木のお店では、外資系の企業が多い場所ということもあり、半分くらいが外国人のお客さんだったのです。

「実は僕、英語が大の苦手で、高校入試でも10点くらいしかとれなかったんです(笑)当時は全然英語が話せなくて、対応は英語ができるスタッフにまかせきり。自分で対応するのは、予約の電話などやむを得ないときだけでした。でも、常連さんは英語が話せない自分にも関わらず、接客すると結構喜んで店をあとにしてくれたんです。僕が店長として毎日店にいるんだから、英語を話せたら、もっといいサービス・接客ができるのになぁと悔しくなってきていて・・・。今後も飲食業で仕事をしていくんだから、英語を話せるようになるべきだなと思いましたね」

世界をみるため、オーストラリアへ

店長として多忙な生活の中、英語を勉強する時間は中々とれない日々。そんな中ひとつの転機が訪れます。
新たなステージに進むべく、会社を退職します。

「次の仕事はどこで何をしようかと考えていたとき、オーストラリアにいる知人が『ワーキングホリデービザでこっちに来てみたら?サポートするよ』と言ってくれたんです。一度は海外で暮らしてみたかったし、英語も勉強できるし・・・これは行ってみるタイミングだなと思い、飛び込んでみました」

そしてオーストラリアに渡航し、まずはシドニーで生活しながら語学学校に通います。

ishitotetsu_os_1.jpgオーストラリア時代の中源さん。オーストラリアは一次産業に従事するとワーキングホリデービザが2年にのびるという制度があり、農家でも働いていたのだそう

「英語の中でも、接客にいかせるホスピタリティサービスの英語を学びたかったので、それができる語学学校に3カ月通いました。最初の1〜2カ月は耳が慣れず相当苦戦しましたが・・・最後の1カ月がすごく面白い授業で、バリスタの技術・知識を付けながら、ホスピタリティサービスでの英語を学べるというものだったんです。日本にいた頃は、コーヒーは缶コーヒーで十分!というくらいだったんですが、オーストラリアはコーヒー文化がしっかりしていて、そのおいしさにふれるうちにコーヒーにものめり込んでいきました。コーヒーを淹れたり、ラテアートの技術も身につけられ財産になりましたね」

このときも学校に通いながら、生活費や学費を補うため週6〜7日アルバイトという生活を続けます。その後、語学学校を修了しメルボルンに4カ月滞在した後、オーストラリア1周なども経験します。

中源さんの料理の腕はオーストラリアでも認められ、有名なシドニー・オペラハウス(20世紀を代表する近代建築物で、世界的に有名な歌劇場・コンサートホール・劇場)の近くの日本食レストランで部門料理長も経験します。
「ハイクラスなレストランだったので、ダメ元で応募したんですが・・・まさか採用してもらえるとはビックリでした。前菜・寿司・フライヤー・デザートなど細かくセクションが分かれていて、僕は前菜部門の部門シェフを任せてもらいました」

その後、ビザの期限もあり一度日本に戻ることを考え始めたとき、別の日本人料理長から北海道ニセコ町のホテルのレストランを紹介してもらえることに。オーストラリアにいるうちにして、次の勤務先が北海道ニセコ町に決まります。

北海道ニセコ町とシンガポール

さて、日本に戻り、ニセコのホテルのレストランで半年の短期アルバイトとして勤務します。海外で学んだ英語を日本で話してみたかった中源さんにとって、ちょうどいい環境だったといいます。外国人が多いニセコですから、日本にしてここまで英語を使える場所もきっと珍しかったことでしょう。

ishitotetsu_niseko_3.jpgニセコ町で。たくさんの外国人の方との交流がありました

ニセコで働くことが決まったタイミングで、シンガポールで日本食レストランを経営している方から「うちで働かない?」とのお誘いもあったのだとか。ニセコで半年働いた後、次はお誘いを受けてシンガポールに行ってみようと決意します。

しかし、いざシンガポールでの生活を始めると・・・
「もともとは2年間滞在する予定だったんですが、気候がかなり不安定で高温多湿で、暮らすことが厳しかったんですよね。半年でシンガポール生活に見切りをつけて、ニセコで働いていたホテルのレストランに出戻りさせてもらいました。でも、その場所(現地)に住んでみる事で、初めてその国の人・地域性・文化を知れることの大切さを改めて学びました。これは観光旅行では経験出来ない事ですよね」

ishitotetsu_sg_2.jpgシンガポールでも、たくさんの方との出逢いがありました。暑いので半袖短パンです(笑)

こうして、海外2カ国目での挑戦は思わぬ形で終了しますが、戻ったニセコで新たなチャンスに恵まれます。
「アルバイトではなく社員として働かせてもらえることになり、最初はシェフとして働いていたんですが、ある時社長が僕の東京での店長歴やオーストラリアでコーヒーの勉強をしていたっていうところに目をつけてくれたんです。ニセコで新しくカフェをオープンする計画があり、そこの店長を任せてもらえることになりました。僕自身は『ホールでもシェフでも、必要な箇所でうまくつかってください』というスタンスだったのでお受けしました。コーヒーやカフェに関する新たな経験をさせていただける機会はありがたかったですね」

カフェの店長とレストランの副店長を2年半勤め、中源さんは32歳に。
「いつかは自分のお店を持ちたい」という夢もあり、徐々に今後の人生について考え始めるようになったといいます。

「いつまでニセコで働くんだろう?と考えたときに、このまま40~50歳まで・・・っていうのは何か違う気がしたんです。そろそろ小樽に戻ってみようか、と考えるようになりました」

そうして故郷の小樽に戻ることを決意しますが、小樽で働きたい場所がなかなか思い浮かばなかったといいます。
小樽にどんな店があると働きたいだろう・・・そう考えたときに思いついたのは、「おいしいコーヒーやカフェラテが飲めたり、地元の食材にこだわった料理とワインが楽しめるようなお店」でした。だったら、「自分が働きたい」と思うカフェバーを作ってしまおう!と、お店を立ち上げることを決意します。

幸運がかさなった開店準備

お店を立ち上げると決めてから、半年くらいは色んな人に「お店をやりたい」と宣言し続けていたという中源さん。資金集めや開業場所について色々と考える日々が続きます。しかし、実績がない中で資金を集めることは、トントン拍子というわけにはいかなかったといいます。

奔走する中、ある日知り合いの先輩から「小樽の石蔵使って事業をしてくれる人を探しているオーナーさんを紹介できるよ」という素敵な話が舞い込みます。そして、今の建物のオーナーさんとのお話が進むことになります。

「最初は築100年の蔵が残っているだけで本当に何もなくて、『ここで何ができますかね?』と聞かれる状態でした」と話します。

ishitotetsu06.JPG歴史ある石蔵。斜めの線の上と下で色が違うのは、この前にさらに蔵があり、日に焼けた部分とそうでない部分の違いなんだとか

そこで、「僕ならカフェバーを柱とした事業をします。海外の人も対応できるので、ホステルも付けます」というアイディアを提案します。

「飲食業って利益率が悪くてなかなか儲かりません。でも、宿泊施設は設備を作ってしまえば利益率はかなりいいので、飲食業の利益率の悪さをカバーするためにもぴったりだなと思ったんです。それを合わせたらビジネスとして成り立つと思いますと、事業計画書をばーっと書いてオーナーさんに渡したら、『じゃあこれでいってみようか』と言っていただけて。オーナーさんは香港の方なので、英語を勉強していたおかげで開業にあたっての想いも英語で直接伝えることもできました」

料理人として料理をきわめてきた経験、店長として数字やお店全体を管理してきた経験、英語を身につけた経験。今まで積み重ねてきたものがひとつの線で繋がる瞬間がついにやってきたのです。

石蔵を改装

ところで、すごく気になる店名について、中源さんはこう語ります。

「あえて飲食店っぽくない名前にしたかったんです。石蔵の『石』は必ず使って、そこに新しい素材も埋め込みたいな、と考えました。小樽には石に木を組み合わせてノスタルジックでレトロな雰囲気にしているお店が多くて、それも素敵なんですが、他のところと同じだとちょっと新しくないと思い、木に代わる別の素材はないかなあ?と考えてパッと思いついたのが『鉄』。石蔵の小樽軟石に堅い素材の鉄を組み合わせたら、石の良さがひきたつんじゃないかなあと思ったんです。調べてみると、有名な旧手宮線ー札幌間は北海道で初めて通った鉄道だったり、昔は鉄工所がたくさんあったりして、小樽ならではのストーリーもちゃんとあって・・・それで、お店の名前とコンセプトを『石と鉄』にしよう!と決めました」

ishitotetsu010.JPGお店の看板はあえてミニマルにして、隠れ家的な雰囲気に

その後、内装の設計を始めます。
「古いものをいかしつつ、新しいスタイルにできればと思って店内を作りました」と中源さんは語ります。

壁に鉄板を入れ、カウンターは全面鉄の素材に。
インダストリアルなエジソンライトを入れて海外っぽさを出し、
テーブルの脚にはH鋼のアクセントを取り入れ、デザインが個性的な鉄の椅子を選ぶなど、遊び心を加えます。
キッチンはフルオープンにして、見られても絵になるよう調理器具にもこだわります。

そうして、築100年の石蔵の趣きを残しながら、モダンな雰囲気を醸しだす店内が完成しました。

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また、石蔵の外観はあえてほとんど手を加えなかったといいます。
「シンプルな外観からのれんをくぐって入ってきた瞬間、中はこんなにかっこいいお店だったの?!っていうギャップを感じてもらいたかった」と話します。ここにも中源さんのセンスを垣間見ることができます。

ishitotetsu015.JPG外観は小さな店名とのれんだけというシンプルさ

「石と鉄 STONE and IRON」オープン

そうして、2019年2月25日に「石と鉄 STONE and IRON」はオープンします。

観光地に近い場所であることやホステル(≒ゲストハウス)という店舗形態から、観光客7・地元の方3くらいの割合かと予想していたそうですが、実際には8割は地元のお客さんなのだとか。近くに住んでいる方が常連になり、頻繁に来てくれるケースも多いそうです。「一番の常連さんは近所に住んでいる88歳のお客さまで、『マスター、いつもの』と注文されていきますよ」という驚きのエピソードも。

その後、カフェバーの開業から少し遅れて2019年10月に2階のホステルがオープンします。

ishitotetsu020.JPG石蔵ならではの味わいと、清潔感が両立したドミトリースペース。1泊約3,000円。

「石蔵に泊まれる」をコンセプトに作ったというホステルは、壁はシンプルに白にし、小樽軟石の美しさが強調されるつくりにしたといいます。
また一見わかりませんが、窓からは常に自然光がそそぐように石蔵の壁から40cm離した場所に内壁を作るなど、細かな工夫もされています。

「このホステルに泊まって、小樽の観光を楽しんでほしいです。周辺はお酒が飲める場所も多いですし、花園(小樽の飲み屋街がある場所の地名)までも歩ける距離なので、ぜひはしご酒なんかも楽しんでもらえると嬉しいですね」

ishitotetsu016.JPGホステル部分につながる階段。階段は当時のままなので少し急ですが、趣きが残っています

自身の経験を次世代へ

お店はスタッフさんの力を借りて営業していますが、そのスタッフさんに対しても中源さんなりの想いがあります。
「小樽商科大学の留学生がほとんどです。半年〜1年間日本にいるという子が多いんですが、その間に日本でできる経験として少しでもここで働くことがプラスになれば嬉しいです。僕自身オーストラリアにいたとき語学学校では英語がほとんど覚えられなくて、アルバイトの現場で覚えていったという実感があるので、働きながら実際に言葉を使っていくのがいいと思うんです。もっと日本のことをよくわかってもらえると思うし、学校だけではできない経験をしてもらいたいですね」

ishitotetsu_shu_2.jpgスタッフさんたちと。みなさんここで働くことの楽しさが伝わってくる笑顔です

ロシア人、フランス人、ベトナム人、韓国人など、留学生の国籍は様々ですが、基本はみなさん英語が話せるのだそう。日本語が流暢じゃない人は、仕事仲間とは英語でコミュニケーションをとり、接客を日本語で頑張ることで、少しずつ日本語を学んでもらうようにしているのだといいます。

「今後、働ける日本人が少なくなると、海外の人が増えてくるのが必然ですよね。日本はさらに外国人と共存する状態になってくと思いますので、早めに対応できる体制をつくっておくことも大切だと考えています」

「かっこいい小樽」を目指して

東京・オーストラリア・シンガポール・ニセコと様々な場所で経験を積んできた中源さん。数々の料理人経験からも、お店を開くなら東京や北海道札幌市といった一等地でも十分通用するように感じられますが、故郷・小樽に戻ってくる選択は、長く過ごしてきた小樽への思いと、周りの人を大切にする人間性がそうさせたのでしょう。

「小樽の若者が外に出ていってしまう理由って、まちに残り続けるだけの魅力が足りない面もあるのかなと思っているんです。働きたいと思えるところがなかったり、住んでいて楽しめる場所が少なかったり・・・自分自身でもそう思う部分があったので、若者達が魅力を感じるような『かっこいい小樽』をつくっていきたいという思いで、自分ができることとしてこのお店をつくりました」

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さらに、今後のビジョンについてこう語ります。

「小樽の『地元』と『観光』の垣根をとっぱらって、繋いでいける役割ができるといいなと思います。小樽は観光で盛り上がっている反面、地元の人は観光地には興味がなかったり、逆に敬遠していたり・・・。その状況を変えていきたいなと思っています。ここが地元の人に気軽に来てもらえるお店になって、観光客・海外の方にも来てもらえたら、そこに交流やコミュニケーションが生まる可能性がありますよね。なので、このお店には本当に誰でも気軽に入ってきてくれたらいいなと思っています」

また、コロナウィルスで大変だった状況だからこそできることのアイディアを、ここ数カ月で色々と実践してきました。
「休業期間(自粛期間)には、時代や状況に合わせて新しいアイディアを色々考えました。例えば・・・小樽の飲食店とコラボレーションし、
・オンラインで食事会を開催(食事がお客さまの家に直接届く仕組みになっていて、オンラインで店主のお話を聞く形式)
・テイクアウト事業に参加(ル・キャトリエムさんと。石と鉄オリジナルのサンドイッチを1日個数限定で提供)
・新たなテイクアウトブランドの立ち上げ などです」

小樽の飲食店との繋がりも多く、人とのつながりを大切にされているからこそ、休業中でも色々な企画が実現しています。

「かっこいい小樽をつくる」という大きな使命を持ち、走りつづけている中源さんと、石と鉄。
地元の人と外の人を繋ぐ拠点として、小樽で重要な役割を担う未来が必ずややって来ることでしょう。

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小樽石蔵CAFE BAR&HOSTEL 石と鉄〜STONE and IRON
小樽石蔵CAFE BAR&HOSTEL 石と鉄〜STONE and IRON
住所

北海道小樽市色内2-2-8

電話

0134-61-1214

URL

https://www.facebook.com/stoneandiron.otaru/


世界へ飛びだした料理人が、故郷に創った理想の場所。

この記事は2020年5月1日時点(取材時)の情報に基づいて構成されています。自治体や取材先の事情により、記事の内容が現在の状況と異なる場合もございますので予めご了承ください。