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北海道の農を見守り、ひっそりと業界を支え続けた職人20190917

この記事は2019年9月17日に公開した情報です。

北海道の農を見守り、ひっそりと業界を支え続けた職人

農機具と言えば、みなさん何を思い浮かべますか?

土を掘り起こすクワや、草を刈る鎌を想像した方は進化が止まってますのでご注意。今や最先端のテクノロジーが使われている最前線と言っても過言ではない農業分野。その最先端の一翼を担う、北海道富良野市にある農業用機械メーカーであるオサダ農機株式会社さんにお話しをうかがいました。北海道の農業について違った側面から見ることもできますし、農業機械の今昔を知ることができます。そして職人一筋!という物腰の柔らかい会長のお話は、後世に残しておきたいお話しとなりました。

北海道の中心部に位置する富良野市。ウインターリゾートの聖地とも知られ、観光地として訪れた方も多いかと思いますが、農業もとても盛んなエリアです。オサダ農機さんに取材に向かうため、国道を走ると、農業用機械であるトラクターや重機が並んでいる会社がひしめいていました。一般の人からすると、これらの会社と同じようにオサダ農機さんも「ああ、そうだよね。農家さんも多そうだし、トラクターとかを販売したりレンタルする会社だよね、きっと」と思われるかも知れません。私たちもそう思っていましたが、全く違いました。オサダ農機さんは、そういった北海道を代表する農業用機械を「製造するメーカー」だったのです。

事務所に到着して応接室にてお待ちしていると対応いただいたのは代表取締役会長である長田秀治さん。よくきたね〜という感じで、今まさに作業の手を止めてきてくださった雰囲気。とても優しくお話ししてくれますが、お話しの節々に聡明な考え方を持った方である印象を抱きます。聞くと創業者でもあるとのこと。1代で会社を築き上げた経緯からうかがってみました。

今から40年以上も前の富良野

osada1-2.JPG代表取締役会長 長田 秀治さん

「会社は昭和47年に隣町の南富良野町で創業しました。当時は自動車整備工場としての創業で、日本の世の中はちょうどマイカーが普及しだしたくらいの出来事。だからまだ当時は車の整備といっても、商用の車が多くて、タクシーや商用ライトバン、トラックとかの貨物車がほとんどでした。まだ馬車も走ってる時代で、そのころから農家さんも2トントラックとかに切り替えだしたような時代背景でした」

昭和47年...西暦にすると1972年です。これをお読みの方はまだ生まれていない方も多いかも知れません。創業のお話しを聞いて、そもそもなぜ自動車整備工場をやろうと思われたのか、会長の過去についても聞いてみます。

「小学校のころから、自動車の整備士になる!って決めてたんです。車が格好いい!みたいなのはありましたけど、子どもながらに、これからは自動車社会の時代が来る!って思っていました。だから中学を卒業したら高校には行かず、職業訓練学校に入って整備についてを学ぶことにしました。そして日本で1番大きなディーラーに就職してメカニックに。9年ほど働きました。当時は月給で7,500円とかの時代。正に日本の高度成長期まっただ中で、モーターリーゼーションが革新的に進んでいった時代の頂点だったと思います。そんな状況でしたから、車が売れに売れてて、売るための営業の人間も足りない。だから整備の人たちも営業しなきゃいけなくなり、これがまた整備の人間ってメカを知っているから普通の営業とは違った売り方ができて、営業よりも売れちゃったりしてました(笑)。これに会社もしめた!と思ったようなのか、整備よりも営業の仕事が増えてしまいまして...。整備が好きで整備の仕事に就いたのに、これじゃやりたいことができないと思い、退職することにしたのがサラリーマンとしての人生は最後でした」

創業時の苦労と先見の明

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会長のお話から、当時のことをリアリティのあるお話しとして聞けたことで、ネットやニュースなんかでは聞く昔のことがさらに身近に感じます。それにしても月給7,500円とは想像できない時代です。その後、退職されてからについてもうかがいます。

「北海道のかなり上の方にある浜頓別(はまとんべつ)というまちで、知人と一緒に共同で独立したのですが、とにかく忙しすぎてこれじゃカラダが持たないっていう状況にまでになり、仕切り直そうと思って辞めて、地元に戻ろうって考えました。でも地元でサラリーマンにまた戻るのもどうかと思い、それだったら事業を起こそうと考えたのが創業した経緯です。創業は南富良野でしたが、当時小さな町なのに、同業が2社もあって、今では考えられないような地元からの反発も。いろいろと難しかったですね。当時は地元に車検をやれる会社がなく、ウチが車検をやれるとなってからは、かなり多くの車が持ち込まれるようになりました。開業することを大反対してた人も持ち込んでくれるようになったのは嬉しかったですね。小さな会社でしたが、工場にどんどん車検待ちの車がたまっていくので、町のなかでは、なぜあんなに車が駐まっているんだ!?って話題にもなってたみたいです(笑)。当時はまだ車はキャブレター(現代のような電子制御になる前の燃料と空気を混合させる部品)の時代でした。他の整備工場とかで直らない車が、ウチに持ってきたら直る!みたいなことも結構言ってもらっていたのも覚えています。機械を直せるというのが広がって、風呂のボイラーとかも頼まれたりなんかも(笑)。構造的にわかるものであれば何でも受け入れましたね。町の電気屋さんみたいに見てた地元の人も多かったかもしれないです(笑)」

車が普及すると共にニーズが増えた車検というビジネスへの最適なマッチングや、車の故障・修理といったことも身近に増えたこと、そんな経緯を通じて、会長がそもそもやりたかった整備への情熱が多くの方々に知られていくことになったのです。会長はビジネスについてもこう説明されました。

「当時、南富良野町の人口が6,500人くらい。その人口で、車がだいたい1,500台くらいの割合でした。今、南富良野は人口2,600人くらいに減りましたが、それでも逆に車の数は増えているんです。商用だけじゃなくて、1家に2台も3台もとかにもなっている状況でもありますから。これが昭和40年代から自分が予見してた世界だったんです。だから田舎でも商売になるって」

このお話しを聞いたとき、すごく大切なことを聞けた気がしました。これから人口が減っていく世の中でも減っていかないビジネスってなんだろうという感覚は、会長から後世に語りかけているようにも思います。

人出不足の課題が、新たな事業展開に

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もちろんこの後は、ご想像通り順調に会社として大きくなっていきます。創業から5年後、株式会社 南富(なんぷ)自動車サービスエリアとして法人化。今も現存し、地域の車に関するサービスを提供する企業として運営を続けています。

この南富自動車サービスエリアを源流に派生したのが、オサダ農機(株)。平成2年に農業機械部門として事業を開始したところから始まったそうです。
当時のことを会長からお話しをいただきます。

「農業機械に関わるようになったきっかけは『人手不足』からでした。南富良野町は道内でも屈指のニンジンの生産地。当時は北海道でニンジン畑が6,000ヘクタールあると言われてて、その内の40%が富良野エリアに集中していました。その頃のニンジンの収穫は、全て人海戦術。出面さん(でめんさん)と呼ばれる収穫期のパートさんがいろんな地域からバスで送迎されて畑まで来て手伝ってくれていました。それが時代が進むにつれて、なかなか出面さんが来てくれなくなる状況に。当時リゾート法というのが制定されて、富良野や美瑛などが認定されて、続々とリゾート地の開発が始まりました。サホロやトマムなどのリゾート地もでき、ベッドメイクの仕事を中心に、そちらへ人手が取られるようになっていきました。時代的には石炭を採掘する産炭地の仕事が減ってきており、そういう方々が働いてくれていたのですが、人手の奪い合いのようになっていった時代だったんです」

会長のお話は、北海道の歴史が詰まっていました。観光地としての開発、炭鉱の減少、人々の働き先の変化など、なるほどと思うことばかりです。頼まれたらとりあえず考えてみるという会長のお人柄から、この問題に関わることになります。

「ニンジンを手で収穫するって結構大変なんです。中腰で土中に埋まっているニンジンを引き抜くにもかなり力がいります。収穫時期に大勢で一気に獲らないといけないはずなのに、人手不足。そんな困っているということを地元農協の職員から相談を受けまして、とりあえず農業機械のことならと思い、当時のヤンマーさんとかクボタさんとかのメーカーにニンジンを収穫する機械はありませんか?と問い合わせましたが、つくっていないという回答。じゃあ、つくってみるかって(笑)」

それが今から約30年前の平成2年の出来事でした。このままじゃせっかくニンジンを農家さんがつくっても収穫できなくなる。収穫できないからつくらなくなってしまう。そこをなんとかしたいという想いのもとから始まったニンジンを収穫するための機械製造。平成4年6月「人参収穫機(スーパーキャロットル)」の実用化販売を開始します。ところが、そう上手くいく世界じゃなかったと会長は笑います。

数々の失敗を繰り返して解決してきたから今がある

puroro.jpg人参収穫機のプロトタイプ。今現在も初心を忘れないために保存しているそうです。

「ニンジンを収穫できる時期って決まっていますから、機械を作ってもテストをなかなかできないんです。だからニンジンの収穫が最初に始まる千葉県まで機械を持ち込んでテストして、次は七飯に行ってテストして...みたいに、日本や北海道内でどんどん北上していく収穫期にあわせて機械を持ち込んでいました。農家のみなさんはすごく協力してくれまして、ありがたかったですね。そんな試作を重ねて2年かかってようやく商品化。約束通り農協さんが買ってくれましたが、もう、調子悪いこと続きで...。すぐ壊れてしまうんです。何回も直しにいっていました。そうこうしていましたら、大手メーカーも製造をしだしまして、300万円程度の機械で売り出し始めました。当社のは1,500万円くらいの製品でしたので、もうこれはかなわないなとなりましたし、当社のは高いのに使ったら調子悪いっていうのもありましたから、もう恥ずかしくてしょうがなかったですね」

ところが大手メーカー製品が有利と見られていましたが、徐々に形成を逆転していきます。大手メーカーの製品は、さすが大手メーカーだけあって、精密な構造になっていたそう。逆にオサダ製は、シンプルな構造で特殊なものはなるべく使わないようにしていたということが、後々になって効いてきたそう。ニッチな農業機械であるということも、大手が動きずらかった要素もあったようで、故障が起きてもすぐに改善していけるという行動力も功を奏して、農家さんの間で「ニンジンを獲る機械はオサダ製がいい!」となっていったのです。

平成8年にはニンジン収穫機を製造するという着想と開発実用化が認められ「工業会長賞」や「北海道知事賞」を受賞。平成10年には技術の改善と創造工夫が認められ「科学技術庁(現在の文部科学省)長官賞」を受賞。平成11年には総生産台数100台を達成するまでに至ります。その後平成14年にはこの技術を活かし、大根収穫機の販売も開始。同年についに農業機械部門を自動車整備事業から切り離し、富良野市に移転、翌年平成15年にオサダ農機株式会社として設立することになりました。

その後も数々の賞を受賞し、スイートコーン収穫機、キャベツ収穫機、はくさい収穫機など、さまざまな農業用機械を開発・販売。研究や試験を行うための自社の農地も取得するなど、独自の進化を続けています。さらには、その実績が認められ、大手農業機械メーカーであり、当時はライバル企業にも見えたヤンマーやクボタとのOEM受注や共同開発などを展開するようになり、オサダ農機の製品は、それぞれのメーカー名を背負って、北海道だけでなく全国の農協さんや農家さんへデリバリーされるようになったのです。

前に出すぎない美学。大切なことはメジャーになることじゃない。

やんまー.jpg最新の人参収穫機(2019年現在)。常に改良を続けています。

と、ここまできて、自らの会社が開発して製造した機械が、大手メーカーの名前で出荷されて使われることに寂しさや悔しさみたいなものがないのかを会長に聞いてみます。

「農家さんなら、オサダ農機製だって知っている人もいるかもしれないですし、知らないかもしれない。ですが、当社の機械は、地域を助けるために産まれた機械。それでいいんです。やっぱり大手メーカーさんを通じて供給できた方が、多くの農家さんのためになりますし。ニンジン用については、今は当社の機械しかないですしね。十勝方面でもかなり活躍していまして、北海道では90%以上はウチの機械で収穫していると思います。ニンジンの収穫は手間がかかるから、つくるのはやめた方がいい!みたいな風潮も農家のみなさんの間では一時期あったようなのですが、オサダの機械があるから作りだそう!なんてこともありまして、芽室方面はそれで作付け始めたんだっていうのも聞いています」

海外製でニンジンを収穫する機械はあるそうですが、葉っぱを引きちぎりながら収穫するなど、日本の出荷基準にあった獲り方ができないことが多いそうで、その背景もオサダ農機製が支持されている理由でもあるそうです。それにしても機械が農業の在り方すら変えていっていたのはすごいお話しです。

これからの「ものづくり」の世界、機械に向き合う仕事とは。

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機械屋の鏡のような会長でしたので、最近の方々の自動車業界や機械製造業への就職意識が下がってきていることをつい相談してしまいます。

「今は車も機械に関することも、長年の知識や経験とか勘みたいなことって必要がなくなってきている時代。電子制御も進んできていますしね。でも、車ってアクセルを踏んだら前に進みますよね?それってどうしてなんだろう?って考えたことってありませんか? 時代とか技術が変わっても『なぜなんだろう?』っていう興味が前に突き動かすことなんだと思うんです。アクセルを踏んだら、インジェクションから燃料を噴射して...とかって答えではなくて。普段あまり考えないかもしれませんが、日々、日常にある製品に目を向けて、たくさんある『なぜなんだろう?』っていうことに気がついたら、きっと変わっていくと思うんですよね。今はもしかしたら油まみれになって、機械と向き合うことって時代遅れに見えるのかもしれませんが、いずれまたブームがくると思っています。私が子どものころに感じてたみたいに、逆に注目する人が少なくなってきている、そういう時代だから、機械に向き合ってみたい人にはチャンスな気がしますよ」

作業用のツナギを着ていないと落ち着かないんだよねという会長。社長職を娘婿に譲り、後進を育てながら、今も大好きな研究をするために工場にこもっています。AIの技術も使ったキャベツの収穫機を産官学で開発を始めだしているそう。

世の中の機械化が人々の職業を奪った、人件費を浮かせるために機械化が進んでいるという声もありますが、会長のお話を聞くとそういう感じにはとても思えません。会長が語った「地域を助けるために産まれた機械」という言葉。会長の考え方が広がっていくと共に、北海道を、富良野を代表する会社として「オサダ農機」という名前がもっと知られるように願いたいです。

オサダ農機株式会社  長田秀治会長
オサダ農機株式会社 長田秀治会長
住所

北海道富良野市字扇山877番地3

電話

0167-39-2500

URL

http://www.osada-nouki.co.jp/

関連会社)

◎(株)南富自動車サービスエリア

◎(有)ふらのレンタカー

◎(株)おさだ高原農場


北海道の農を見守り、ひっそりと業界を支え続けた職人

この記事は2019年4月17日時点(取材時)の情報に基づいて構成されています。自治体や取材先の事情により、記事の内容が現在の状況と異なる場合もございますので予めご了承ください。