北海道の真ん中、上川町にある層雲峡温泉郷。大雪山国立公園の断崖絶壁が24㎞続く峡谷の中ほどにあり、たくさんの宿泊施設が温泉街を形成しています。単純温泉や硫黄泉など施設ごとに異なる源泉を有し、大自然の中、湯あみを楽しめるとして温泉好きに高い人気を誇ります。
また、大雪山連峰の黒岳に続くロープウェイがあり、多くの観光客や登山者が訪れる山岳リゾート地としても知られています。そんな層雲峡温泉で、一般的な温泉宿とはひと味違う独自性を打ち出しているのが「ホテル雲井」です。20代のスタッフが中心の同ホテルでみんなのまとめ役を務める2人に、これまでの歩みや層雲峡での暮らし、職場の魅力などを伺いました。
古い旅館を事業継承。コロナのあとの休館を経て、2025年に再スタート
層雲峡温泉街の一角にある「ホテル雲井」は、古くからこの地に続く温泉旅館でした。2017年ごろ、当時経営者だった80歳の女性から、京都に本社を置くホテルプロデュース会社「株式会社水星」が事業継承。
リノベーションして運営していましたが、コロナを機に経営を見直し、4泊5日の宿泊客を対象とした「東洋医学の療養リトリート」にリブランディングします。
ところが、緊急事態宣言が発令され、宿泊業自体の継続が難しくなり、休館を余儀なくされてしまいます。休館中は全寮制の学校法人が校舎と寮として一時的に利用していましたが、2025年の秋から再び宿として運営を再開しました。
大雪山国立公園の壮大な大自然に抱かれるように佇むホテル雲井。2025年秋に水星の手によってリスタートを切り、層雲峡温泉街に新しい息吹をもたらしています。
古くから残るものの良さを残しつつ、今の時代のエッセンスを随所に取り入れた味のある宿として再スタート。「煙にまかれた湯治宿」という新しいコンセプトを掲げ、美人の湯と言われる良質な源泉掛け流しの湯で心身を癒やし、手作り感の残る館内や客室でくつろげる宿になりました。
どこか懐かしさも漂う館内は、都会のけん騒を離れ、ゲストがリラックスして自身とじっくり向き合えるまさに湯治の宿です。接客のスタイルも格式ばった高級ホテルのようなサービスではなく、親しみやすさの中に、付かず離れずの温かい「お節介」が感じられます。ゲストとスタッフの程よい距離感も特徴です。
一方で、株式会社水星は、ホテルという箱を通じて世の中と人生の可能性を広げ、新しい選択肢を提供していこうという考えがベースにある会社。ホテル雲井を通じて上川町のポテンシャルを引き出し、活性化にも貢献しています。
アーティストが滞在しながら作品を制作する「アーティスト・イン・レジデンス」や、地域での起業を促す「層雲峡 小商い開業プログラム」といったホテルを起点としたエリア資源の再編集をも牽引しています。
ローカルで仕事がしたい。地域活性化起業人として、上川町へ
そんなホテル雲井のリスタートの立ち上げから関わってきたのが、水星のプロデュース事業部に所属する佐藤純平さんです。現在は、都市圏にある大手企業などの社員が地方自治体に派遣される「地域活性化起業人」として上川町役場とホテル雲井と水星の本社・京都を行き来しながら、ホテル雲井やエリア全体の活性化業務に携わっています。
佐藤さんは大阪の枚方市出身。子どもの頃から旅や自然が大好きだったと話し、「小学生の頃、『おぼろ月夜』という唱歌の歌詞にあるような日本の里山風景に惹かれる渋い子どもでした」と笑います。
関西学院大学の商学部マーケティング学科に進み、バックパッカーとして東南アジアを旅したり、興味のあった地方創生系のインターンシップに参加したりしていました。
特に、京都の鞍馬で古くから作られている佃煮「木の芽煮」について取材・執筆活動を経験した際、「日本の地方には、歴史的価値のあるものや熱い想いを持ってそれに携わっている人がたくさんいるのに、その魅力を伝えるマーケティング力が不足している」と思ったそう。
こちらが、水星のプロデュース事業部に所属する佐藤純平さん。
地方に携わって魅力を発信するにしても、「まずは自分がマーケティングを身に着けよう」と、大学卒業後、東京の大手広告代理店グループのPRやデジタルエージェンシーに約7年勤めます。
認知獲得から売上向上までの一連のマーケティング手法を習得していきます。多忙な日々を送っていると、もともとの目的を忘れ、日常に飲み込まれてしまいそうなものですが、「いつかは直接地方に飛び込み、現場の中で暮らしながら仕事をしたい」という想いを抱き続けていました。
佐藤さんが次のステップに進む転機となったのは、内閣府の国際交流事業「世界青年の船」への参加でした。世界各国から集まった優秀な青年たちに強い衝撃を受けたと言います。
「そのときはまだ会社員で、会社にお願いして約1カ月間、休みをもらって参加しました。各国から集まった代表青年たちが自身の志と仕事を一貫させて語る姿がとてもカッコよくて、志ばかりの自分がすごく情けなく感じたんです」
木板に手彫りされた「雲井商店」の文字が迎えるエントランス通路。館内のあちこちにスタッフやアーティストの手仕事が散りばめられ、訪れる人を和ませます。
彼らとの出会いによって、本当にローカルが好きだと思うなら、もっと早く現場に飛び込むべきだと強く背中を押された佐藤さんは、1年後に会社を辞めようと決意します。
「社会人になってから登山を始めて、月に1回くらいは山に登っていました。ただ、本当に仕事が忙しくて、山に行きたくてもなかなか行けず...。でも、やっぱり山に行くと、地方の里山っていいなと感じていました。ゆくゆくは里山で宿をやりたいと考えていて、狩猟免許も取得していたので、移住するなら山とジビエがある場所と考えていました」
長野などいくつかの候補地がある中、北海道もその中に入っていました。当初は地域おこし協力隊での移住も検討していましたが、偶然にも以前から繋がりのあった株式会社水星がホテル雲井の再スタートの準備中だと知り、2025年7月にホテル雲井と上川町の担当として入社します。
「目の前に大雪山連峰もあるし、山に入ればシカ撃ちもできるし、宿のことも勉強できるし、ちょうどいいなと(笑)。あと、地域おこし協力隊出身の方や移住者の方たちがまちを活性化させようと起業し、地域と連携して面白い取り組みをしているなど、上川町自体がユニークな自治体だというのも知って、自分の経験も活かしながらいろいろできるかなと思ったのも理由のひとつです」

地域の人たちと共に、さまざまなプロジェクトを手掛ける
現在佐藤さんは、水星の社員としてホテル雲井の運営にも携わりながら、地域活性化起業人として層雲峡エリア全体の活性化業務にも携わっています。
「肩書きとしてエリアプロデューサーと呼ばれることもあるのですが、僕自身としてはこの呼ばれ方が苦手で...。僕としては、まちで長く暮らしてきた地域の方々への敬意を忘れず、謙虚な姿勢で汗をかくような黒子的な存在でありたいと思っているんです。プロデューサーなんて、偉そうな感じはちょっと...」と困った顔で手を横に振ります。きちんと地域に溶け込もうという佐藤さんの誠意がよく伝わってきます。
佐藤さんの仕事内容は多岐にわたります。役場での業務としては、団体ツアーや企業研修の受け入れのルート開拓、温泉街と上川町市街地との連携強化など。また、ホテル雲井のプロジェクトもさまざま行っています。
滞在型制作プログラムで訪れたアーティストたちが手がけた館内アート。地域の歴史や自然からインスピレーションを得た作品が、館内の随所に彩りを添えています。
ホテルのプロジェクトとしては、冬に知床在住の写真家・川村喜一氏らを招いたアーティスト・イン・レジデンスを企画。アーティストの方たちに冬の層雲峡に2週間滞在してもらい、アート作品の制作に取り組んでもらうというものです。このときに制作されたアーティストたちの作品は館内に展示されています。
このほか、夏~秋の3カ月間、層雲峡に滞在しながら、小さな商いを実際に立ち上げる実践型のチャレンジ「小商い開業プログラム」も実施中。滞在期間の半分はホテル雲井で働き、もう半分を自身の商いに充てることで、生活と挑戦の両立を目指すという面白い企画です。
「上川町は移住者に対する受け入れ態勢がとても柔軟で、新しいチャレンジに対して前向きな風土があります。温泉街の将来的なビジョンやマスタープランを作り、地元の方々や観光協会、DMO(観光地域づくり法人)と連携しながら、歩いて楽しい温泉街を作っていけたらと考えています」
温泉街のメインストリート。車で通り過ぎるだけでなく「歩いて楽しい温泉街」を目指し、行政や周辺ホテルと手を取り合いながら街全体の活性化が進められています。
ホテリエとしての経験を活かし、新しいチャレンジのために転職
次に、ホテル雲井の支配人を務める小川なつみさんに登場していただきます。小川さんがホテル雲井に赴任したのは今年(2026年)の6月。その前は水星が運営する石川県金沢の「香林居」に勤務していました。
小川さんは福島県いわき市の出身。大学は外国語教育を重視する埼玉の獨協大学へ進みます。「人とコミュニケーションを取るのが好きで、英語でいろいろな国の人と交流できたらと思って」と話します。
高校時代からアウトドアや自然に親しむプログラムに参加し、大学生になってからはその企画運営にスタッフとして関わるようになった小川さん。4年間にわたり、小・中学生から大学生までが集うキャンププログラムの企画・運営に没頭していました。
「初対面の子どもたちが共同生活をしながら自然の中でアクティビティを楽しむ。そんな体験をイチから企画するのが本当に楽しかったんです」
こちらが、ホテル雲井の支配人を務める小川なつみさん。
そんな経験から、イベント企画などを行う企業への就職を希望していましたが、ちょうど就職活動の時期はコロナ禍。希望していた業界は採用をストップせざるを得ない状況となり、小川さんも自身の進む道を軌道修正しなければならなくなりました。
そんな中、コロナという逆境の中でも前向きに社員募集を行っていた星野リゾートに興味を持ち、入社を決めます。
入社後は山梨県のリゾナーレ八ヶ岳に配属され、レストランや客室清掃、フロント対応といったホテル業務の基礎をここでマスター。その後、自身の希望と実績が認められ、子ども向けアクティビティの専門部署へ異動します。スキーのレッスンや体験イベントの企画に携わり、学生時代に培った「体験を作る楽しさ」を現場で発揮していきます。
社会人3年目を迎えた頃、小川さんは自身のキャリアについて真剣に考え始めます。
フロントで真剣な表情を見せる小川なつみ支配人。お客様への細やかなおもてなしはもちろん、数値管理やシフト調整など、施設全体の舵取りを日々担っています。
「現場でのプレイヤーだけでなく、もっと上流の企画や意思決定に関わりたい。自分が『これだ』と思えるものをダイレクトにお客さまに届けたい」という思いが強くなっていました。そんな時に「うちに来ない?」と声をかけてくれたのが、水星で働いていた先輩。学生時代のキャンプ活動で知り合い、小川さんが尊敬していた人でした。
「先輩が本当に楽しそうに働いていたのが印象的だったんです。そして、会社のバリューの中に『愛せるものをつくろう』という言葉があって、ここなら自分のホテリエとしての経験を生かしつつ、お客さまに自分が考えたものを提供するなど、新しいことにどんどん挑戦できるんじゃないかと感じました」
2024年に水星へ転職した小川さんは、「香林居」での勤務を経て、今年ホテル雲井の支配人として着任。
「最初は支配人という大役にプレッシャーもありましたが、現場の細部からマネジメントまで全部に関われる絶好の機会だと捉えました。苦手な業務や数値管理にも正面から向き合い、日々試行錯誤を重ねています」と話します。
味わい深いアンティーク調の木製キャビネットに並ぶ「雲井商店」のオリジナルTシャツ。旅の思い出や湯上がり着として、宿泊客からも人気のアイテムです。
職場の風通しの良さは抜群。スタッフとの共同生活も楽しい
ホテル雲井は、料理長以外は20代を中心とした若いスタッフが多く働いています。
ホテル雲井に集まる理由は「北海道の自然が好き」「いつか自分で宿をやってみたい」「接客業で働きたい」と理由はさまざま。それでも、みんなで協力し合い、課題を見つけ、それを解決するためにどうすればいいか意見を交わし、実際に現場で取り組んでみます。
「水星は、『みんなでいいものを作っていこう』というマインドが強く、みんなの意見をきちんと吸い上げ、いいものならどんどん挑戦してみようという会社なんです。いくら立派な企画書やプランを立てても、実行できなければ意味がない。まずは打席に立って試してみる。走りながら考えるという感じです」と小川さん。
週に数回、社長や経営陣とダイレクトに話ができ、直接アイデアや相談を持ち込める「オープンな相談枠」も用意されており、社歴や立場に関わらず、良いアイデアであればスピーディーに採用される環境が整っています。
「役職や年次に関わらず『こうすればもっと良くなる』という意見はどんどん採用され、実際にホテルの運営やサービスに反映されています。そういう企業風土なので、みんなで話をしながらホテルを運営しています」
スタッフには毎日リポートを提出してもらっているそうで、「みんな、毎日のように大小関係なく課題を見つけ、それを解決するために行動を起こしたり、いろいろな提案をしたりしてくれるんです。それは、やっぱり自分たちがホテルを動かしているという意識があるからだと思うんですよね」と続けます。
支配人として、スタッフが主体的に動ける環境づくりに尽力する小川さんは、まとめる大変さを感じつつも、自身が指導した新人メンバーが自発的に判断してクレーム対応や業務改善をしてくれた瞬間に、大きなやりがいを感じると笑顔を見せます。
流木プレートに並ぶ「雲井の手づくりスクラブ体験」。天然素材を取り入れ、ゲストが自分好みのスキンケアを楽しみながら湯治気分を味わえる工夫が凝らされています。
スタッフ間の風通しの良さは、ゲストから見てもホテル全体の雰囲気の良さに直結するものです。もちろん、意見が言いやすい、みんなが同じ方向を向いているなど、その理由はいろいろありますが、ホテルに隣接した寮でスタッフみんなが共同生活を送っていることも大きな理由のひとつです。
共同生活と言っても、個室がしっかり確保されているのでプライベートは守られています。でも、共用キッチンやリビングスペースがあり、いつも自然と人が集まってくるそう。
小川さんは「とにかくみんな仲がいいんですよね。メンバーでの食事会を開くこともあります。もちろん参加は自由です。その辺はみんなお互いに尊重しあっているので。中には仕事がシフト制なので参加できないメンバーもいますしね」と話します。
小川さんをはじめ、アウトドアが好きなメンバーも多く、この間は上川町のオートキャンプ場でBBQを開催したりもしたそう。
日差しが差し込む開放的なラウンジに置かれたビリヤード台。宿泊客の憩いの場であると同時に、仕事終わりにスタッフ同士で白熱した対戦を楽しむこともあるそうです。
層雲峡はアウトドア好きには最高の場所。オンもオフもどちらも充実
スタッフの仲がいいのはもちろん、層雲峡での暮らしは楽しいことがいっぱいあると佐藤さんも小川さんも口を揃えて語ります。アウトドアが好きな2人にとっては、層雲峡は最高の立地です。
登山が好きな佐藤さんは「すぐそこに山があるのは、めちゃくちゃいいですよ」と話します。趣味のひとつにランニングがあり、山でトレイルランにも挑戦。ちなみに狩猟免許を持っているもののまだハンターとしてデビューしていない佐藤さんは、これから地元の猟友会に入会して本格的にデビューを果たす予定なのだそう。
一方、スノーボードが好きという小川さんは冬のパウダースノーも楽しみと話します。着任前のゴールデンウィークに残雪でスノーボードを満喫したそうで、「本格的な冬が楽しみ」とニッコリ。さらに北海道の真ん中という立地を生かし、休みの日には車で道内各地をドライブしているとも話します。
ホテル雲井の看板横で並ぶ小川支配人と佐藤さん。それぞれの経験や想いを胸にこの地へ移住し、層雲峡の未来を切り拓く仲間として日々挑戦を続けています。
また、「毎日、温泉に浸かれるのも魅力ですね」と小川さん。ゲストの入浴のあと、スタッフもホテルの温泉に入ることができ、「こちらに来てから健康的になった気がする」と笑います。さらに、ベテラン料理長が作ってくれる賄いも美味しいそう。
やりがいのある仕事、そして充実したプライベート。都会だとオンとオフをできれば切り離したくなるものですが、仕事と暮らしが程よくつながっているのも悪くないものだと2人の話を伺っていて感じました。
それは、水星という会社の在り方と層雲峡という場所の組み合わせによるものなのかもしれません。楽しそうに暮らす人が増えれば、地域も変わっていく気がします。これからの層雲峡温泉郷、そしてホテル雲井が楽しみです。
白樺染の布地に部屋番号が記された客室サイン「210」。無機質になりがちな客室表示にも、手仕事ならではのやさしい風合いと温もりあるこだわりが息づいています。
- 層雲峡温泉 ホテル雲井
- 住所
北海道上川郡上川町層雲峡
- 電話
01658-7-7138
- URL















