札幌から車で約1時間、新千歳空港からは約30分という場所に位置する長沼町。
町の東側には緩やかな馬追丘陵が長く伸び、その麓にはのどかな田園風景が広がります。畑作、稲作、果樹栽培と農業が盛んなこの町には、地元の食材を使ったカフェやファームレストランなどが数多くあるほか、温泉、アウトドアなどのアクティビティも盛ん。北海道で唯一のどぶろく特区であることや、ガラス工芸や陶芸、木工などのアーティストも多く暮らしていることなどから、どこか自由でクリエイティブな空気も感じられます。
そんな長沼町に、2022年の春、新たな注目スポットが仲間入り。それが「馬追蒸溜所」です。
今回は、広報を担当する本宮聡子さん、蒸溜技師の花岡昌季さんに、蒸溜所の話を伺うとともに、道外出身のお2人がどのような経緯でここにたどり着いたのか、これからの夢も合わせて語ってもらいました。
石狩平野を見渡せる馬追丘陵に建つワイナリーと蒸溜所
細い車道をたどって馬追丘陵を上がっていくと、馬追蒸溜所の建物が現れ、右手の斜面にはブドウ畑が広がっています。建物の中に入ると、出迎えてくれたのは大きなウイスキーの蒸溜機。なかなかの迫力ですが、ブロンズ色の丸みを帯びた形状には、少し古めかしさ漂う工業的な美しさも感じられます。
その奥には、天井の梁が印象的なホールのような空間が広がり、片側は一面大きな窓になっています。眼下には美しい石狩平野がどこまでも広がって...と書きたいところですが、取材時は大雨。残念ながら晴れ渡った石狩平野を望むことはできませんでしたが、霧に覆われた田園風景もまた味があります。
「雨の中、ありがとうございます」と明るい声で現れたのが、広報の本宮さん。「この窓から晴れているときは札幌ドームも見えるんですよ」と話し、さらに「あちら側の窓からはブドウ畑が一望できます」と逆側にある階段上の窓を案内してくれました。本当に雨なのが残念です。
この場所が馬追蒸溜所としてグランドオープンしたのは、2022年のゴールデンウィーク。もともと、かつて日本一小さなワイナリーとも言われていた「マオイワイナリー」でしたが、ワインだけでなく蒸溜機を置いてウイスキーの生産も始めたタイミングで、社名を新たにMAOI株式会社として運営をスタートしました。
好きだった仕事よりも、北海道愛が上回る理系女子
本宮さんは、馬追蒸溜所がオープンして約1年後の2023年5月に入社。横浜出身で、北海道大学の工学部で機械について学んでいたという異色の経歴の持ち主です。
「最初は文系だったんですが、一浪して、物理が得意だったので理系に切り替えたんです。そして一人娘だったこともあって、やや箱入りだったので(笑)、ちょっと離れたところに行こうと思って北大を選びました」
北海道に縁があったわけでもなく、北と南なら寒いほうがいい、そして食べ物がおいしそうという理由で北海道へ。当初は文房具が好きで、工業デザイン系を学びたいと考えていましたが、「機械系の勉強をはじめたらおもしろくなってきて、大きな工場を造るプラントエンジニアになりたい」と、大学院を経て横浜にあるプラントエンジニアリングの会社へ就職します。
「工場の初期設計から関わり、実際に形となって稼働するまでを一気通貫で見ることができ、すごく感動して...。仕事内容は大好きで辞めたくなかったのですが、結局4年半在籍して退職しました」
好きだったのに辞めた理由を尋ねると、「仕事の内容以上に、北海道に戻りたいという想いのほうが強くて...。葛藤はありましたが、北海道で暮らすことを選びました」と笑顔で語ります。
そんな北海道愛は、大学・大学院時代の6年間で育まれました。在学中、道内あちこちを巡り、「自然、食、温泉とこんなに恵まれたいい場所はない」と思ったそう。
異業種に飛び込み、知らないことにも臆せずとことんチャレンジ
大好きな北海道に戻り、知人の親族がやっている恵庭の建設会社で働くことになります。これまでいた業界とは異なりますが、特に気にはならなかったそう。中小企業で若手がいなかったこともあり、人事、労務、法務、広報など全般を任されます。
「知らない業界で、これまで経験のないことばかりでしたが、学んで実践していくことが楽しくて。社長たちも信頼してくださっていたので、いろいろなことにチャレンジさせてもらいました」
働き方改革を行ったり、PR活動をしたり、これまで特に行っていなかった新卒採用に乗り出すなどのほか、自身も2級土木施工管理技士の資格を取得。設計図面を見て、積算も経験したそうです。この時点で、あまりにもマルチで驚きますが、さらに驚きは続きます。
「もともと子どもが好きで教育にも興味があったのですが、社長のご子息に勉強を教えたのがきっかけで、夜には地元の塾で講師のアルバイトもしていました」
興味あることにトコトン突き進み、充実しているようにも思えますが、本宮さんはもっと上を目指したいと考えます。
もっと北海道に大きく貢献したいと、大好きなお酒に関する会社に転職
「建設会社の仕事も塾講師のアルバイトもとても楽しかったのですが、もっとバリバリと北海道の役に立つことにチャレンジしたい。いつか起業して、大きなインパクトを与えられるような仕事をしたいと思ったんです」
そのためには何をすればいいかと考えるようになり、起業のために経営を学べるコンサル会社に入ろうと転職活動をスタート。ちょうどその頃、以前から交流のあった株式会社AZEの社長・村田哲太郎さんと話をしたのがきっかけで、本宮さんは村田さんの元で働きたいと思います。
株式会社AZEは、後継者がいない広島の酒造メーカー・馬上酒造を買い取り、建て直しを行ったのを機に、札幌の紅櫻蒸溜所(北海道自由ウヰスキー株式会社)、澄川ビール(澄川麦酒株式会社)も傘下に加え、酒造りメーカーとして事業を展開していました。
「村田社長は外資系金融機関を経て、地方創生などの仕事に携わっていた人物。以前から村田社長のことは尊敬していましたし、経営にも明るいですし、社長のところで働けば勉強になる!と思いました。それから、私はお酒がとっても大好きなので、そこに携われるならぜひと思って入社しました」
もともとあった馬追のワイナリーで、ワインのほかにウイスキーも生産しようとMAOI株式会社(馬追蒸溜所)が立ち上がり、本宮さんは現在、ここで広報をはじめ、経営管理、酒販店への営業やマーケティングも担当しています。
AZEグループでは、2025年に千歳アウトレットモール・レラの駐車場跡にウイスキー蒸溜所と日本酒醸造所がひとつになった施設を建設する予定。さらにグループ会社のお酒をすべて出す飲食店を、札幌すすきのエリアにオープンさせたそうです。
「できればここも土日にバルができたらと考えているんです」と本宮さん。バーカウンターもあるので、確かに窓からの景色を眺めながらワインや食事ができると喜ばれそうです。
「この場所、ウエディングフォトの撮影にご利用いただくこともあるんです。あとは音楽イベントもできるので、いろいろな方に知っていただき、利用してもらいたいと考えています。ジャンルを超えてさまざまな方とコラボするなど、できることを増やしていきたいと考えています」
大好きな北海道を、これまた大好きなお酒で盛り上げていきたいという想いと、本宮さん自身がとてもワクワクしている様子が伝わってきました。
日本酒、ウイスキーの製造に関わり、バーテンダーも経験
次にお話を伺うのは、蒸溜技師の花岡さんです。花岡さんは北九州出身。農業や食品系のことを学ぶ地元の短大を卒業後、酒蔵で日本酒の分析と製造の仕事に携わっていました。
「お酒が好きで、いろいろなお酒をたしなむように。最初はカッコいいからという理由でウイスキーを飲み始めたのですが、だんだんその奥深さを知るにつれ、ウイスキーが本当に好きになって、ウイスキーの勉強がしたいなと思うようになりました」
酒蔵で日本酒造りを経験し、お酒を仕込んで造っていく楽しさを知った花岡さんは、ウイスキーも自分で造ってみたいと思うようになります。酒蔵を辞め、まずはウイスキーも含め、お酒のことを広く知ろうと福岡市内の店でバーテンダーを経験。その後、山梨にある大手のウイスキー蒸溜所で働き始めます。
「仕込みから蒸溜まで関わらせてもらい、4年間在籍しました。知れば知るほど、自分のお酒を造ってみたいと思うようになり、そういう経験ができるクラフトメーカーを探し始めました」
そんなとき、酒蔵時代の後輩から馬追でウイスキーの蒸溜所が立ち上がり、さらに千歳にも蒸溜所を造る予定で、技術者を探しているという話を耳にします。
「ジンにも興味があって、札幌でクラフトジンを造っている紅櫻蒸溜所のことはチェックしていました。そこを運営している親会社が新たに蒸溜所を立ち上げ、ゼロからウイスキーを造るなんて、こんな機会は滅多にないこと。ぜひともと思って手を挙げました」
ウイスキーの完成まで最低3年。時間をかけて納得いくウイスキーを
今年2023年の2月に北海道へやって来た花岡さん。出勤初日に大雪に見舞われ、凍結した路面で早速車の事故を起こしてしまいます。
「いきなり北海道の洗礼を受けました。大事にしていた愛車をダメにしてしまい、正直凹みました」
そんなアクシデントからのスタートでしたが、それよりも花岡さんがしなければならないことは山積みでした。
「ウイスキーは完成までに最低3年はかかり、全ての工程がとても大事。特に、精麦したものを糖化させて麦汁をろ過させる際、いかにきれいな麦汁を造れるかが重要。それによって、ウイスキーのフワッとする甘い香りができるかどうかが違ってきます。僕がここに来た時、すでに仕込みは終わっていましたが、土台が雑だったので、一から全部見直しました」
酵母を加えて発酵させる際も、このときの温度管理などが香りや味を左右します。どのタイミングで蒸溜するか、熟成させるタイミングや環境なども重要で、技術者の技量が問われるとともに、それぞれの技術者の個性が表れます。
「そこが酒造りのおもしろいところ。今年の8月に熟成に入ったので、3年後が楽しみですね。でも、自分が本当に納得いくものができるのはもっと先かな。本場のスコットランドでは12年かかると言われています。ここでもぜひ世界レベルのウイスキーを造りたいですね」
お酒を軸に、それぞれの夢が花咲く馬追蒸溜所という場所
現在は、ワイン造りも手伝っているという花岡さん。グループ会社が札幌でやっているジンにも興味があると言います。「いろいろなお酒造りに携われるのは勉強になるからおもしろいです。せっかくここでワインを造っているので、今度はワイン樽を使ってウイスキーを熟成させてみようかなとも思っています」と話します。
花岡さんの夢は、酒造りをする傍ら、自分が造ったお酒をお客さんに提供するバーテンダー。「ワインも、ジンも、ウイスキーもあるから、カクテルを作って出すこともできるし。そういうのいいですよね?」と笑います。あと何年かすれば、ここのバーカウンターで本当に叶えられそうです。
一方、本宮さんは、「現在熟成中のオール道産ウイスキーは、早ければ2026年に販売開始できるので、それが1番楽しみです。ただ、今はうちのワインやウイスキーのファンになってくれる人を増やすことが目標。日本中、世界中にうちのお酒を広めて、北海道に貢献していきたいですね。そして、個人的には地元の子どものためになることもここでできたらいいなと思っています」と話してくれました。
馬追蒸溜所のショップや蒸溜所見学は土・日・祝日のみ。また、ウイスキーやブランデーの樽オーナー募集なども行っているので、ホームページをチェックしてみてください。
美味しいお酒はたくさんの人を笑顔にします。そんなお酒を中心に、馬追蒸溜所は本宮さんや花岡さんの夢も咲かせることができるステキな場所にこれから成長していきそうです。
- 馬追蒸溜所
- 住所
北海道夕張郡長沼町加賀団体
- 電話
0123-88-3704
- URL
- 運営会社:AZE holding