北海道の道北に位置する「サムライしべつ」の呼称を持つ士別市。このまちに、一世代前の少し懐かしい5千円札に描かれていた札幌農学校(後の北海道大学)の出身である新渡戸稲造さんにちなんで命名された「イナゾーファーム」があります。現在、三代目の谷寿彰さんと奥さまの江美さんご夫婦が舵を握り、有機JASを取得したトマトをはじめ、カボチャ、もち米、大豆、小豆などを生産する農場です。
2019年には法人化して「株式会社イナゾーファーム」として新たに生まれ変わったこの農場。看板商品である「イナゾートマト(有機フルーツミディトマト)」は、販路を自分たちで一から開拓した直接取引のみを行っており、全国の百貨店や高品質スーパー、レストランなどで取り扱われています。こちらのトマト、実は寿彰さんの代になってから生産を始めたのですが、そこに谷さんご夫婦のドラマがありました。
今回、くらしごとでは奥さまの江美さんにイナゾーファームの歩みやこれからのビジョンについてお話を聞かせていただきました。
取材に伺ったのは収獲の忙しさが一段落し、既に初雪も済ませた11月中旬。
都市から農村へ。未来を大きく変えた経験とは?
まずは、江美さんご自身のこれまでの歩みについて伺ってみました。
「私は東京生まれ東京育ちで、いわゆる都会っ子でした。日常の文化とは違う自分の知らない世界に触れたくて、将来は海外で暮らすことも視野に入れ、早稲田大学の政治経済学部へ進学しました。ですが、1年生の時にたまたま選択した『農山村体験実習』という授業が私の人生を変えたんですね。この時、初めて観光地ではない田舎というものを体験したのですが、都会っ子だった私には何もかもが非日常で『海外じゃなくて日本にも知らない世界はあるじゃないか!』と気付いたんです。そして、その時もう一つ強く感じたのが、日常に欠かせない食とこれを支える農業は極めて密接に繋がっているということを自分も含めて気付けていないということ。これが私が農業の扉を開いた最初のきっかけでした」
農業に魅せられた江美さんは、その後も在学中に「学生NPO農楽塾」の代表を務めたり、現在では理事を務めている「NPO田舎のヒロインズ(農業に携わる女性を中心としたネットワーク)」が開催する集会に参加したりと精力的に農の道を探求します。そして、北海道新得町にある共働学舎という農業や酪農、チーズの製造を行う農場で開催されたワークキャンプに参加した時、ここで将来のパートナー寿彰さんと出会うのです。こうした自身の体験を通して見つけ出した「都市と農村をつなぐ」というテーマは今でも江美さんのライフワークになっています。
「大学を卒業後は、都市ではない田舎を知れる経験になればと株式会社星野リゾートへ就職しました。長野、山梨、福島といった地方で接客や広報の業務を約3年間経験した後に、北海道士別市、夫の農場へ嫁ぎました。『よく東京からこんな田舎に来たね』などと良く言われたんですが、今は昔と違ってどこに暮らしても都市や人、もっと言うと世界と繋がれる便利な世の中になりましたから、田舎で暮らすハードルは随分と下がっているように感じます。それと、私鈍感なんですかね?これまで大変な思いはしてないと思ってますよ(笑)」
現在は、農家の奥さん、経営者としての顔のみならず、4人の子どもを育てる母でもある江美さん。取材中、元気いっぱいにはしゃぐ子どもたちの相手をしながら、来客があれば対応をし、更にはインタビューにも応えていただくその様子は、小柄な身体からは想像できない程、パワフルなお姿でした。
今年は「NPO田舎のヒロインズ」から出版した書籍「耕す女(ひと)」の執筆や編集といった業務もあり、例年より多忙だったそうです。
オリジナルブランド「イナゾートマト」が誕生
こうして江美さんは大都会東京から北海道の人口約2万人のまち、士別市に移り住みます。実はそれより少し前、北海道大学大学院農学研究科を修了後、一足先にご実家の3代目として就農をしていた寿彰さんは、新規作物として園芸用ハウスを購入しトマト栽培を始めます。これが後にイナゾーファームの未来を大きく変えることになるのですが、トマト栽培を始めたきっかけを伺うと江美さんが少し照れくさそうにこう教えてくれました。
「夫が言うには『結婚して生活資金を稼ぐため』なんだそうです(笑)」
なんとも微笑ましいお話です!最初はビニールハウス1棟で有機フルーツミディトマトの栽培を始めたのですが、約10年が経った現在では、なんとビニールハウス14棟にまで増やしました。そして、そこで栽培した全てのトマトを自分たちで開拓した販路のみで直販しています。
「トマトの栽培の特徴として、改善策の成果が見えやすいんです。なので、最初に栽培を始めてから少しずつ品質を向上させていくそのプロセスがとてもおもしろくて、トマトの生産にのめり込んでいったんですね。私が嫁いでからは、有機JAS認証を取得したり、私のこれまでの経験を活かして首都圏の販路開拓も行いました。こうして、オリジナルブランドの『イナゾートマト』が産まれたんです」
さらに「イナゾートマト」はトマトジュースとしての別の顔も持っています。原材料はトマトのみ、純度イナゾートマト100%のジュース。こちらの加工も、農場内の施設で行っており、原料の甘み・酸味・旨味の濃度を感じられるこのジュースは、生鮮品であるトマトそのものであり「TOMATO JUICE」という名で全国のトマトジュースファンを唸らせる代表商品です。
イナゾートマト100%のトマトジュース。一般的なトマトジュースとはまるで違う甘みと酸味が生み出す感動の味です。
畑から発信する子育て応援というチャレンジ
ここで、4人の子どもたちの母でもある江美さんに子育てについても話を伺ってみたいと思います。農業と子育ての両立、正直大変そうだなと感じてしまうのですが、実際はどうなのでしょうか?
「そりゃー大変ですよ(笑)朝子どもを保育園に連れて行って、仕事に取りかかったと思ったら、もうあっという間に夕方で、子どもを迎えに行く時間になっちゃいます。私の主な仕事は、お取引先様とメールや電話のやりとりやジュースの発送、DMの制作など販売に係る業務全般なので、基本は自宅の中で行えますが、トマトの収穫期には選別作業なども入ってきます。ただ、幸いなことに、夫の祖母と両親も同居する総勢9人という大家族なので、色々とサポートしてもらったりと恵まれた子育て環境だと思いますね」
こちらは版画の作家さんがイナゾーファームに滞在した際、谷さんたち9人の大家族を描かいた作品です。お家にドーンと飾られています。
夫婦共働きが一般的になった現在、働き方改革も叫ばれてはいますが、仕事と子育てや家事の両立はそう簡単とは言えない世の中です。そんな中、新鮮な野菜を子どもたちに与えられ、家族のサポートを受けられる自身の恵まれた環境は「極めて例外的」と語る江美さん。そうしたことから、子育て世代のお母さん・お父さんを応援する商品を、この自分たちの畑から作りたいと考え、新しいチャレンジにも取り組み始めました。
どんなに忙しくてもいつも家族で食卓を囲めるのは農家の特権。谷家の子どもたちはパパが大好きです!
「この冬から本格的に製造・販売をスタートするのが、赤ちゃんの離乳食としても使用でき、小さい子どもでも持ちやすいように工夫されたトマトジュースをパウチにした新商品です。中身はもちろんイナゾートマト100%のジュースそのものです。これまで販売してきたビン詰め商品とは違い、軽くて栓抜きもいりません。使い切りサイズなので、外出時に持ち歩くこともできます」
続けて「現代の子育て世代を応援することで、未来の子どもたちが育まれる社会をより良いものにしていきたい」と言う江美さん。農場内にある加工施設には新たな機械も準備されていて、今後はベビーフードの開発にもチャレンジしていくそうです。
この日は一番下の子は保育園で不在でしたが、3人が元気いっぱいに撮影に協力してくれました!
こんな時代だからこそ、明るい光を次の世代へ
これからの農業を支える次の世代、子どもたちに農業の魅力や喜びを伝え、未来に繋いでいくこと、これは今、現役で関わっている者としてのミッションであると言う江美さん。こうした想いから、農業研修や学生の実習、農場見学などの受入れも積極的に行っています。これらに訪れるのは、道内に関わらず東京など道外からも来られるそうです。
「今年は初めてトマトの収穫期である秋に東京都内のマルシェに出店したのですが、それを支えてくれたのは、夏に研修に来てくれた都内の大学に通う学生さんたちでした。自分たちが農村で生産したトマトを都市で消費者に届けるという経験をしてもらえたのは私たちもとても嬉しく感じています」
このイナゾーファーム通信も江美さんが全て自分で制作して、お客様に発送しています。
先にもふれました「都市と農村をつなぐ」という江美さんが描くビジョン。それは農業の扉を開くことにもなった「都市の日常」と「農村の日常」の繋がりを自らの経験を持って気付き、そして描いたもの。江美さん、そしてイナゾーファームでは、そうした気付きを都市に住む人たちや、これからの未来を創造する子どもたちや次の世代にも農業を通じて感じてもらえるよう架け橋を作っているのです。
最後に江美さんがこう言います。
「農業に限らず、産業が大きく変わっていっている世の中ですが、これからも積極的にチャレンジを続けていって、そうした私たちなりの明るさをみなさんに見てもらえれるようにしていきたいですね」
- 株式会社イナゾーファーム
- 住所
北海道士別市多寄町38線西9番地
- 電話
0165-26-2031
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