
左手には北海道の背骨、十勝岳連峰、右手にはどこまでも広がる太平洋。
緩やかにカーブを描きながら日高の国道をシーサイドドライブ中のくらしごとチーム。この日は大潮に近い日だったため、遠浅の岩棚が水面に出ており、海藻を採集する漁師さんの姿もちらほら。
山と海、大自然のパワー溢れるこのエリアですが、今回のテーマはなんと「砂漠」。水の豊かな北海道で砂漠とは一体?
このミステリーを解き明かすべく向かったのはえりも町。コンブをはじめとした海産物の宝庫であるこの町と砂漠にどんな関係があるのでしょうか。謎は深まるばかりです。
水揚げは家族総出で!えりものコンブ漁事情
まずお話を伺ったのは、えりも漁業協同組合とひだか南森林組合に所属し、えりも町で5代にわたってコンブ漁を営む飯田英雄さんです。
「赤ん坊と病人以外は全員仕事がある」といわれるコンブ漁。飯田さんも子どもの頃からご両親の手伝いをして育ちました。
こちらが飯田英雄さん。本格的な昆布漁の時期前ですが、港を案内してくれました
コンブ漁は船に乗って海に出る漁師さんと、漁師さんがとってきた昆布を砂利を敷いた干場(かんば)に干す「陸廻り(おかまわり)」のコンビネーションで行なわれます。
女性や子どもの担当は主に水揚げ後の陸廻り。漁師さんは昆布を取っては水揚げし、また昆布をとりに漁場へ戻ります。
当時のことを飯田さんに聞くと、「昆布干しの作業は重いわ多いわでとにかくもうヘトヘトになります。でもあの頃は当たり前のことだと思ってやっていました。この辺りは干場が坂になっているので、余計にこたえるんです」と、当時を振り返ります。
飯田さんの船がある岬地区は、えりも町の中でも海霧の発生率が高いうえ、一度天候が荒れると長引くため、年間で漁に出られるのはわずか20日程度なのだそう。そのため多少の悪天候なら出漁することもあり、他の地区では1人で船を動かしますが、ここでは安全のためどんなときも必ず2人で乗り込みます。
この日も、市街地は晴れなのに、岬地区は霧模様。
「昆布は早く乾かさないと水分で傷んでしまい、商品にならなくなります。なのでもし水揚げ後に天気が崩れた場合は一旦海に戻し、天気が回復したら改めて干し直します。寝てる時に叩き起こされて昆布の出し入れをやらされたことも何度もありますよ(笑)」
海も陸もフル稼働の、まさに家族総出のお仕事なのです。
坂になっている干場。ここを何度も上り下りして昆布を干していきます。
ちなみに町内にある『郷土資料館「ほろいずみ」・水産の館』では、えりものコンブ漁に関する資料を多数展示しています。また北海道の昆布21種類と世界の昆布12種類の実物標本もあり、大きな昆布が天井に向かって伸びる様子はかなりの迫力です。
普段あまり意識することはありませんが、実は昆布には育つ地域によって幅や長さ、厚みなど様々な個性があります。
例えば浅い海に暮らす昆布は短く幅広で厚みがあり、深い海で暮らす昆布は太陽光を求め上へ上へと身を伸ばすため細長くなるのだとか。岬地区の昆布は後者で、厚みが少ないため高値はつきにくいけれど、水揚げ量はえりも町内でトップ!昆布の世界も一長一短なんですね。
幻の「えりも砂漠」と「砂喰う民」の歴史
今では当然のように海は青く、山には緑が広がっているえりも町ですが、かつて海は赤く、陸には砂嵐が舞っていた時代がありました。えりもの東側、百人浜に広がっていた「えりも砂漠」です。
むむむ、日本の、しかも北海道に砂漠があったなんて、北海道民ですらその存在を知らない方が多いのではないでしょうか。
現在の、青く広がるえりもの海
『その昔この地はカシワやヤナギ、ハンノキなどの広葉樹が生い茂る豊かな森林地帯でした。明治時代に入り開拓の人々が樹木を伐採し、放牧された綿羊などが草木を食いちぎりました。それにイナゴの大群の発生、えりも特有の強風と悪条件が重なり、緑でおおわれていた森林地帯もたちまち赤土が舞い上がる「えりも砂漠」に姿を変えてしまいました。』(郷土資料館「ほろいずみ」掲示資料より)
そう、えりも砂漠は太古の昔からずっと砂漠だったというわけではなく、人の手と厳しい自然環境によって、ほんの数年という短期間で変わってしまった自然の姿なのです。
砂漠化の影響は甚大でした。
山から木が減ったことで海に流れ込む植物プランクトンをはじめとする栄養素は激減。さらに森によって守られていた黒土が風に飛ばされ赤土が露出し、この地域特有の強烈な風にさらされ非常に細かな粒子となって吹き飛ばされる事で、どんどん海に流れ込みました。海に溜まった細かな赤土は、海が凪いでいる時は良いのですが波が立つと海中で攪拌され海を曇らせます。
山からの栄養素が減り、さらに太陽光も届きにくくなったことで、かつての豊かなコンブ森も大打撃を受けました。美しい山と海に囲まれた暮らしは一変し、「えりもの住人は『すなくたみ(砂喰う民)』だ」と表現されたほど、過酷な環境に変貌してしまったのです。
こうした砂漠化を食い止め、えりものコンブ漁を復活させようと、1953(昭和28)年に浦河営林署「えりも治山事業所」とともに現在まで続く緑化事業に乗り出したのが、飯田さんのお父様である飯田常雄さんでした。
『すなくたみ(砂喰う民)』と呼ばれたころの様子
緑化事業発足の6年後、1959(昭和34)年に生まれた飯田さん。子供の頃のお父様について聞いてみました。
「父はあまり家にいませんでしたね。コンブ漁の時はもちろん漁に出ていますし、漁期以外はよその町へ出稼ぎに行っていました。それに加えて緑化事業の会議などに出ていましたので、母が作った夕食にも帰ってこないことがよくありましたよ。母もそれに対して文句をいうような人ではなく、父のことを支えているんだなと子どもながらに感じていました」
当時はえりもに限らず物が少ない時代。学生服やユニフォームはおさがりが回って来たり、穴が空いたら繕って使うのが当然でした。お店が無いので何か必要なものがあれば、札幌などから1日に数回来ていた物売りから買っていたそうですが、お金がない時は乾燥昆布との物々交換も行なわれていたのだそう。
「向こうも商売ですから、よそに行けばそのコンブが売れたのでしょうね。子ども心にやっぱりワクワクしたのはたまに買ってもらえる果物でした」
飯田さんが思い出すのは「あじうり」と「バナナ」の味。あじうりはメロンよりも少し小ぶりで細長く、すっきりした甘さが特徴です。
「これがメロンだぞと言われて信じていました。そもそもメロンを知らないですからね。そしてなによりバナナ。運動会になるとバナナを買ってもらえるのでこれは本当に楽しみでした」
果物がなかなか手に入らなかった幼少期、子ども達は山に入って色々な実を食べていたそうです。例えば山ブドウに似たガンコウランの実やハマナス、他人の土地に生えていた「石のように固くてまずい」というヤマナシを食べて怒られた事もあったそう。
数ある飯田さんのつまみ食いレシピの中で驚いたのはツツジの花!飯田さんによると「甘い」のだとか...。家にツツジがある方、ぜひ試食レポートをお待ちしています。
さて、中学を卒業後、浦河の高校に進学した飯田さん。4年制大学への進学を志し、二度とえりもには戻らない覚悟をしていたそう。
「コンブ漁で育ててもらいましたが、決して裕福ではありませんでした。漁の手伝いでその辛さも身に染みていたので、自分がコンブ漁を引き継ぐつもりはなかったんです。当時えりものコンブは、砂漠の影響により『泥コンブ』と呼ばれ質も価格も低かったため、両親も継いでほしいとかそういう話は一切しませんでした。しかし体が丈夫だった父が、私が高校3年の時に体を壊したんですね。母の苦労も知っていましたので、渋々ですがえりもに戻ってきたわけです」
コンブ漁の風景
ここで、飯田さんがえりもに戻ってくるまでの緑化事業の歴史をチェックしておきましょう。
【試験に出る!「えりも岬緑化事業」の歴史】
―1953(昭和28)年
浦河営林署「えりも治山事業所」が開設され、本格的な緑化事業がスタート
―1957(昭和32)年
えりも式緑化工法開始
【えりも式緑化工法】えりもは風が強く、緑化用の種子をまいても吹き飛んでしまい定着が難しかったそう。そこで考案されたのが、種子をまいた後にえりもの海でとれる雑海藻(ゴダ)を発酵させたものをかぶせるこの方法。海藻のねばりが種子の飛散を防ぐだけでなく土の栄養にもなり、さらに漁師の副収入にもなるというという画期的な仕組み。運用コストも1/5に。
―1967(昭和42)年
海の汚濁が減少の兆しが見られる
―1970(昭和45)年
背丈の低い草による「草本緑化」が完了
―1971(昭和46)年
防風垣を設置。草ではなくクロマツやカシワなどを植える「木本緑化」を開始
―1976(昭和51)年
防風土塁を設置
―1977(昭和52)年
飯田さん、えりもに帰郷
(年表の一部は郷土資料館「ほろいずみ」より抜粋)
飯田さんも本格始動!親子2代で取り組む緑化事業
こうして1952(昭和52)年、18歳になった飯田さんは再び故郷・えりもの地を踏むわけですが、待っていたのはコンブ漁だけではありませんでした。
「我が父ながら勝手な人で、明日からここに行けと言われて土建屋さんを紹介されました。帰ってきたばかりですし、土建屋さんの仕事だって右も左もわからないので必死ですよ。でも今思えばこの時に色々な免許を取得したり、重機の扱い方も学ぶことができました。これは緑化事業の作業を進めるうえで大いに役立っています」
すでに緑化事業が始まって24年の年月が経っていました。飯田さんがえりもに戻ったのは、草本緑化を終えて、より強固な大地を目指す木本緑化が本格的に動いていた時期です。
コンブ漁と土建屋さんのお仕事を覚えながら暮らしていた飯田さんですが、徐々にお父様が取り組む緑化事業にも加わっていきます。
当時の参加メンバーは約80名。4班編成で活動しており、メンバーの7割が女性だったそうです。
「漁に出ていたり出稼ぎに出てしまっていたりと、男手はそもそも少ないんです。昔の写真を見ても、女の人が中心になっているのがわかりますね。幼い頃の登下校時は、巻きあがる赤土に背を向けて後ろ向きに歩いたものでした。海も濁っていた印象ですが、戻ってみたら青くなっているんです。地元の大先輩や親世代が試行錯誤して取り組んできた、緑化事業の成果を実感しました」
緑が広がる今の景色
こうして本格的に緑化事業にのめり込んでいった飯田さんですが、当時を振り返ると親子でぶつかることも少なくなかったとか。
「父はとにかく人力でやることにこだわっていたんですが、それではいつまでたっても作業が進まないと感じました。私はちゃんと重機を入れて効率よく進めるべきだと思ったんです。要は考え方の違いなんですが、時には取っ組み合いのケンカになることもありましたね。でも実際に重機を使って作業をして成果を見せたら、父は文句を言わなくなりました。私のやり方も認めてくれたんだと思います」
例え考えがぶつかっても、やると決めたらやる。反対されても勝手にやって結果を見せる。それも、お父さんの背中から学んだことでした。
飯田さんが緑化事業に加わってから行なったことは他にもあります。その一つが排水溝の整備。
その頃、せっかく植えたクロマツが、ある程度大きくなると死んでしまうという現象が起きていました。その理由の一つが地中にある水の層。
クロマツは大きくなると、根を下へ下へと伸ばしていきます。その途中で水の層にぶつかると根腐れを起こしてしまうのです。
そこでこれまでも溝を掘って排水してきたのですが、再びえりもの風が立ちはだかります。
重機の投入で作業が効率UP
北海道でも沿岸部の町は意外と雪が少なく、風が強くて雪が定着しない地域も多く、ここえりももその一例です。
雪がしっかり積もれば土があたたかく守られるのですが、雪が少ないと土が凍れて霜が立ちます。するとどうなるのか?
地面の凍結とともに霜で持ち上げられた土が、気温が高くなるとバサッと落ちます。この繰り返しにより、せっかく掘った溝が埋まってしまっていたのです。
「なんとかしなくてならないということで、一人で50cm×50cmの排水溝を、年に数千mずつ重機で掘り進めました。測ってみたらこれまでに約42㎞掘ったようです。あるときふと思ったんです、これナスカの地上絵みたいだなって。運よくヘリコプターから写真を撮ってもらえる機会があったので撮ってもらったら『やっぱり』でした」
かつては砂漠だった場所が緑に。飯田さんたちがやり続けて来た緑化の成果と規模がよくわかります。
た、確かに!大地に均等な幅で正確に描かれた線はまさにえりもの地上絵です。
こうしてクロマツ林を広げ、木本緑化を推進してきた飯田さんたち。そこにまさかの「木を切るべし」という指令が届き、事業は次のステージに進むのですが...。
続きは後編をお楽しみ!
(前編 了)

- 映画 「北の流氷」制作委員会 (事務局/えりも町役場内)
- 住所
北海道幌泉郡えりも町字本町206番地
- 電話
01466-2-4612
- URL
https://www.town.erimo.lg.jp/section/kikaku/sg6h940000008r6k.html